在外軍人や邦人の復員が終了した昭和二十二年(一九四七)の十月、復員省から厚生省に復員業務の管轄が移った。しかしこれ以後も難航したのが、ソ連支配下のシベリア・樺太(現サハリン)・千島・北朝鮮からの引揚問題であった。これら引揚者は二七二万六〇〇〇人にのぼっていた。そのうち、数十万人の人々がシベリアに拉致され抑留生活を余儀なくされ、過酷な強制労働に従事させられていた。弘前市のみならず青森県は「北の要塞」を担っていたこともあり、シベリア・樺太・千島からの引揚者も多かった。
アメリカをはじめ連合国はソ連に引揚げを督促するとともに捕虜問題を批判した。当初は冬季間の捕虜輸送の困難を理由に要請を拒否し続けていたソ連も、国際世論に押され捕虜の輸送に着手した。日本人を強制連行したソ連からの引揚げは大幅に遅れた。国内ではソ連引揚者の督促を求める運動が開始され、青森県でも積極的に運動が推進された。青森県町村会では政府や進駐軍に引揚げを督促し、町村民に対し引揚げに対する陳述嘆願書の提出を要請している。陳述嘆願書の記載事項には「紙面が許せば一家族何人の方が書いても差支なく、なるべく子供、老人、病人等から真心を以て書く事は一層人心を動かす力があると思はれる」とある。多少強制的な側面もあったが、それだけ事態は深刻だったのである(資料近・現代2No.三七二参照)。
ソ連からの引揚げは昭和二十二年から翌年にかけて実施され、大半が帰還を果たした。そのため青森県では引揚者の援護に特別に留意するよう通達している。弘前市でも留守家族の出迎えを勧奨し、秋田、大館など県外まで出迎え、最低でも弘前駅まで出迎えるように指導している。そのほか帰還後の引揚者援護家族の生活状態を調査し、就職や住宅を提供して援助するよう民生委員や各町村吏員に命じている。
弘前市をはじめ青森県出身の引揚者による体験記は数多くある。そのなかでソ連での抑留体験を綴ったものは、いずれも過酷な労働に従事させられ、病気や栄養失調になって多数の同僚が死亡したりするなど、悲惨な経験を切々と語ったものが多い。それだけシベリア抑留生活は抑留者の心身に深い傷を負わせたのである。
昭和二十五年四月、ソ連からの送還は完了したとの発表があった。だが日本側の帰還人数の発表とソ連側の送還数には大幅な相違があった。両者の相違はソ連での抑留生活で過酷な労働を強いられ、死亡した日本人が相当数あったことを示唆しよう。大陸に渡った人々にとって終戦(敗戦)という現実は、国内に帰還できるか否かが決定的な意味をもっている。ソ連への抑留だけでなく中国残留孤児の問題など、今日まだ解決せず、戦争がもたらした負の遺産が残っていることを、改めて記憶すべきであろう。