写真109 弘前市長の引継書
市当局の業務として、当然のことながら敗戦に伴う市政の回復が緊急課題となった。空襲に遭わなかったとはいえ、敗戦後の市内各地域の整備・復旧は第一の課題である。これは土木課の業務だった。戦争終結に伴う国防施設の事業打ち切りが真っ先に行われた。無数に作られた市内の防空壕が次々に撤去された。灯火管制で市内の街灯は消されていた状態だったが、徐々に復活が進められた。資材の入手が困難で配電会社と協議し、資材の蒐集(しゅうしゅう)手配に奔走することもあった。このほか応召兵が大量に復員したため、失業対策土木事業を昭和二十一年度から三ヵ年計画で立ち上げている。
復員対策も重要な市政任務である。徴兵と軍人援護は戦時中の行政の最大任務だった。これは厚生課の担当である。敗戦となった今、徴兵事務は終了したが、軍人援護事務は八割以上継続している状態だった。これに膨大な人数に上った復員軍人や外地引揚者、そして戦災者に対する援護事務が加わった。厚生課は敗戦後もっとも重要かつ多忙を極めた部局だった。後にこれらの任務は福祉事業という形で展開していくことになる。
市の経済復興対策が必要なのはいうまでもない。これは経済課が担当した。広範囲にわたる業務を司(つかさど)った経済課の業務にも、敗戦直後の色合いが強い。市の農地委員会委員選挙の実施、元軍用地の一時使用、供出米の割当、薪炭配給、貨物自動車払下の申請、主要食糧の需給、味噌醤油需給、統計事務などがそうだった。軍都だった弘前市には広大な軍事用の敷地がある。これらは戦後の食糧難のため耕作用地として利用された。弘前練兵場や射撃場などに対し、国立弘前病院や弘前市立高等女学校から耕作地として使用する願いが届けられていた。
食糧の供出は戦時中から半ば強制的に実施されてきたが、敗戦後もその傾向は変わらなかった。しかし突然の敗戦と進駐軍の威力に対し、政府や軍当局に不信を抱いた農民たちは供出に応じようとはしなかった。彼らには政府や軍当局に騙されたという印象が強くあったのである。軍人たちの軍需物資略奪や、違法・不法行為を見たため、その傾向は強まった。そのため再三にわたって市当局は農事実行組合や食糧検査所、弘前農業会などと連絡し合い、米の自発的な供出を説得している。
薪炭配給事情や主要食糧需給関係は、敗戦と物資の欠乏から、市民の必要かつ関心の高い問題だった。市民生活に必要な薪炭や食糧の配給は、市当局が生産地からの拠出に努めたこともあり順調だった。しかし今後の供出米のいかんが配給面に影響を与えるのは確実であり、市民の食糧は生産農家の供出状況に相当左右されていた。味噌や醤油の需給関係は逼迫しており、市民生活は深刻な状態だった。大豆の配給がなかったからである。現段階で味噌・醤油の移出を禁じて中弘地区だけで消費したとしても、味噌は約一〇ヵ月、醤油は一ヵ年半の保有量しかなく、市民の食生活は非常に憂慮される状態だった。
敗戦後の行政業務で特異なものとして、民心状況の把握調査がある。これは大きく分けて二つの方向があった。一つは戦前・戦時中から継続されていた特高警察による民心把握調査である。これが徹底して実施されたのは、敗戦前後の非常事態下だった。もう一つの業務は進駐軍が日本各地の事情を把握するために、各市町村役場当局に命じた調査報告である。青森軍政府当局は県当局に対し、市町村の様相を把握するための地図や諸情報を提出するよう要求した。ちなみに中津軽郡船沢村(現弘前市)役場の調査報告事項から、その報告がどれだけ詳細だったかを示しておこう。
写真110 船沢村役場文書
報告書は市町村の地図や人口統計に始まり、市町村当局幹部や警察官、陸海軍士官だった人物に関する個人情報を記している。個人情報の内容は、学歴、職歴、趣味、生計事情から、思想団体関係などにわたり、実に詳細を極めていた。次に公共施設に関する情報から諸産業状況、交通事情など、地域の様相が克明に把握できるような情報が並んでいる。そのなかで注目されるのは、市町村民の敗戦後における政治・経済・思想傾向から、彼らの生活程度、健康状態、食糧や燃料事情までを報告するよう命じていたことである。当然、これだけの詳細・執拗な報告を提示するためには、行政当局による綿密な観察・査察体制が必要だった。その結果はGHQの民事局が把握し、その詳細なレポートは、各地の占領地行政を知る上で大変重要な資料となっている。GHQが行った新聞・雑誌・信書の検閲は非常に綿密だったことで有名だが、各軍政府に命じて実施させた民事報告書の内容も、占領軍の徹底した日本把握の恐ろしさと執拗さを物語っていよう。