弘前市の合併と農業

595 ~ 596 / 965ページ
昭和二十六年度(一九五一)の「弘前市農業要覧」から農地改革直後、および昭和三十年(一九五五)の市町村合併前の弘前市農業の様子がわかる(資料近・現代2No.四二〇)。総人口に占める農家人口の割合は七%、総世帯に占める農家世帯は五%であり、弘前市の旧市地域だけを見ると農業に関する比率が低いことを示している。しかし、昭和三十年三月、弘前市と中津軽郡一一ヵ村の合併を契機として、同三十一年九月、中津軽郡岩木村駒越の一部編入、同三十二年九月、南津軽郡石川町の合併により、新弘前市の農家戸数、農家人口、経営耕地面積は、六〇四戸(昭和二十九年八月一日)から九二〇九戸(昭和三十一年二月一日)、三九六三人から六万一三八人(同前)、経営耕地面積は四七五・三町歩から八六二五・五町歩(同前)に急増した。昭和三十年の国勢調査では、第一次産業従事者は五二・五%と過半数を占めるようになり、弘前市は城下町商業都市から大きな農村人口を抱えた「農村都市」「田園都市」として成長した(旧『弘前市史』明治・大正・昭和編、一九六四年)。

写真182 秋の田園風景

 また、弘前市は昭和三十一年(一九五六)八月、周辺関係町村と一体となって「岩木山ろく開発期成同盟」を結成した。岩木山ろく地帯は広大な原野を有しているが、粗放略奪的利用のままに放置されていた。これらの高度利用を図るために昭和三十二年、農業未開発基杢調査の指定を受け、同三十三年から、特定農地開発事業として再指定された。国営岩木山ろく開拓パイロット事業は、弘前市、岩木町、鰺ヶ沢町、鶴田町、森田村の一市四ヵ町村に及ぶ、可耕地二五〇〇ヘクタールの農地開発を目指すものであった(図10)。その後、同三十七年三月、南ろく地区基本計画が承認され、最初に同地区の事業が着手された。同四十年までに南ろく、東北ろく地区約一四五〇ヘクタールの農地造成が完了した。造成地には、二集団の新規入植のほかに既入植者の増反、その他農家の増反地として活用し、酪農、畜産の振興を図ろうとした(青森県農地開拓課『青森県の開拓事業(戦後開拓20年の実績総集編)』一九六六年度)。

図10 岩木山ろく地区開拓パイロット事業一般図

 さらに、昭和三十三年(一九五八)十二月、岩木川河川改修を中心に、「津軽地方灌漑(かんがい)排水改良事業」が企画され、穀倉地帯津軽平野の振興が目指され、この時期、食糧増産を目指す関係者の熱心な取り組みが展開された。