昭和三十三年(一九五八)の八月十一日から十二日にかけて、津軽地方一帯は豪雨に見舞われた。この豪雨によって岩木山とともに「津軽平野の母として親しまれてきた岩木川」は、「瞬時にして一面の泥海と化し」戦後最大の災害をもたらした。「市民の多くは、しばし呆然と見つめるのみ」で、弘前市「有史以来」の大被害となった。この水害で死者三人、負傷者八六人、流失・全壊・浸水家屋三〇〇〇余り、橋梁流出一四ヵ所、欠損した堤防護岸一八ヵ所、水田果樹園一六四四町歩、被害総額は約四〇億円に達した(資料近・現代2No.六二一参照)。
写真236 昭和33年水害
未曾有の豪雨は十一日の午前六時ごろから始まり、午前一〇時までには九六ミリを記録するどしゃ降りとなった。岩木川は急激に増水し、川原で砂利採取中のトラック運転手八人が流された。急遽、弘前警察署や県警本部から救助隊が出動し、大湊海上自衛隊や米軍三沢基地からヘリコプターまでが出動して水難者の救助に当たった。雨はいったん小降りになったが、雨量は翌十二日午前一時から五時までの四時間に一五〇ミリにも達した。弘前警察署や消防本部は職員全員を非常召集し特別警戒に当たった。だが岩木川の水流は警戒水位を上回り、午前六時半ごろには岩木橋をも押し流した。堤防を越えた泥流は、たちまちのうちに市街地に侵入し一面を泥海と化してしまった。折悪しくこの泥流は市の上水道水源地を襲い、浄水場を倒壊させてしまった。市内の給水は不可能となり、災害救済活動だけでなく、衛生面からも大きな困難をもたらした。時を前後して衛生対策、水道施設に着手していた市当局としても手痛い打撃であった。
甚大な被害はニュースを通じて全国各地に伝わった。各方面から見舞いと視察団が訪れ、惨劇の状態を視察していった。二十一日には三浦一雄農林大臣や農林省、建設省関係者、国会議員、県議会議員までもが視察に訪れた。市当局はこれら視察者を通じて、政府や県当局に災害復旧の応急措置が実施されるよう要望した。市の中心部一帯を襲った水害は、県や国に陳情するほか手がないほど甚大な被害を市民に与えたのである。