(一)北の文学連峰

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 青森県の近・現代文学を鳥瞰するとき、津軽の風土がいかに多くの文学者を世に送り出しているかということに、改めて驚かざるを得ない。
 それだけではない。その風土と作品が分かちがたく結びついていることも、際立った特徴といえよう。むろん、この事実はつとに指摘されていたことである。例えば、近代文学研究家・勝本清一郎は石坂洋次郎(いしざかようじろう)の初期の作品に触れながら「葛西善蔵と同じに、どうもそこに東北的な風土性の濃くまざったものがあるんですね」と述べたあと、次のように語っている。
だいたい、きょういらっしている柳田さんも同じ郷土ですがね、鳴海うらはるとか秋田雨雀とかもその辺から出ていて、秋田から横手、弘前、黒石にかけて、日本文学の一つの鉱脈がそこにあるんですよね。
(『座談会 大正文学史』昭和四十二年版 岩波書店刊)

 津軽の文学者と風土を「日本文学の一つの鉱脈」と高く評価していることは、注目に値する。なお、「柳田さん」とは、弘前市出身の明治文学研究の大御所である柳田泉(やなぎだいずみ)(明治二七-昭和四四 一八九四-一九六九 弘前市)のことで、早稲田大学に勤めるかたわら、執筆した評論、エッセイの数は長短五〇〇余篇、単行本五〇有冊、翻訳著九〇冊を超えるという。実に恐るべき碩学(せきがく)である。郷土に対する想(おも)いも熱い。また「鳴海うらはる」とは鳴海要吉(なるみようきち)のことである。
 さらに、文芸評論家の奥野健男は、葛西善蔵(かさいぜんぞう)、秋田雨雀(あきたうじゃく)、太宰治(だざいおさむ)、石坂洋次郎寺山修司(てらやましゅうじ)、長部日出雄(おさべひでお)という津軽出身の作家を含む東北出身の作家に共通する特徴を、こう述べる。
東北の血を持った文学者たちに、なにかロシア文学的な、つまり鈍重で深遠で思想的であり、土着的でユーモラスで、忍従的だが反逆的、革命的、あるいは破滅的、戦闘的な性格を感じるのだ。
(『現代文学風土記』昭和五十一年 集英社刊)

 まことに、みごとというほかない鋭い分析である。すなわち、津軽出身の文学者はそれほど強く風土の影響を受けているということである。わけても、津軽の文学を語るとき、見過ごしてはならないのは、文学者同士がきわめて強い関係性を持っているということである。例えば、こういうことである。
 陸羯南(くがかつなん)の玄関番をしたのが、佐藤紅緑(さとうこうろく)。その紅緑の書生に福士幸次郎(ふくしこうじろう)を紹介したのが秋田雨雀福士幸次郎を師と仰いだのが、今官一(こんかんいち)である。今官一太宰治は同年生まれの文学の友人。二人は郷土の先達である葛西善蔵文学碑を建立することを計画していた。むろん、太宰も善蔵の文学の影響を受けている。
 石坂洋次郎もまた、葛西善蔵の影響を強く受けた。石坂の初期の作品は善蔵の作品にきわめてよく似ている。そのことを前述の勝本清一郎が指摘しているのである。ともに善蔵の影響を受けた石坂洋次郎太宰治は、しかしながら、激しく反撥(はんぱつ)することになる。例えば、洋次郎は太宰の破滅的な生き方を批判しているし、太宰もまた、洋次郎の代表作「麦死なず」を酷評している。戦後まもなく、石坂洋次郎が『青い山脈』で、太宰治が『斜陽』『人間失格』で、日本文学の頂点を極めたことを考えると、この二人の反撥は、津軽の文学の多面性を強く示唆しているといえよう。
 そして、津軽の文学者同士の関係性が深いという意味は、後輩が文学の先達を高く評価している、ということにほかならない。例えば長部日出雄である。太宰治の生涯を辿(たど)った評伝小説『桃とキリスト もう一つの太宰治伝』は〈評伝小説〉の最高傑作と激賞された力作であるが、津軽の作家を同じ津軽の後輩作家がその生涯を作品化しているところに、重い意味がある。
 長部日出雄だけではない。長部の高校の後輩である、ルポライターの鎌田慧(かまたさとし)は太宰治を『津軽・斜陽の家』にまとめた。また、鎌田は葛西善蔵を追い、『椎の若葉に光あれ』を上梓している。それだけではない。鎌田は、まさに郷土の先人である陸羯南を〈独立不羈(ふき)のジャーナリスト〉と賞賛している。
 例を挙げればきりがないが、後輩が先輩から強い影響を受け、その生涯や作品を顕彰し、しかも作品化したものが高い評価を得ているというところに、津軽の文学者の関係性の特徴をみることができる、ということを言いたいのである。作家はそれぞれ聳(そび)え立つ独立峰でありながら、連なっている、いわば荘厳な連峰である。
 すなわち〈北の文学連峰〉と称するゆえんである。
 なお、本稿においては、原則として単行本等には『』を、新聞、雑誌等に所収の作品は「」を付している。ただし、引用文中の作品はこの限りではない。