明治四年(一八七一)、五十石町の古川他山塾に入り漢学を学ぶ。そのとき賦した「風壽自靺羯南来」の旬が師他山の激賞するところとなり、爾来、羯南を号として用いたという。後年の格調高い雅俗折衷体の萌芽をすでにこの時期にみることができよう。六年に東奥義塾へ入学、英学を学ぶ。当時にあって、実に開明的であったこの学校は、外人教師を積極的に招聘(へい)し、その中に、本県に初めてりんごを伝えた宣教師ジョン・イングがいた。イングの影響力は強く、羯南は同窓の一戸兵衛(いちのへひょうえ)(陸軍大将)、伊東重(いとうしげる)(医師で養生哲学の創始者)、岩川友太郎(いわかわともたろう)(生物学者)、佐藤愛麿(さとうあいまろ)(外交官)、珍田捨巳(ちんだすてみ)(外交官で昭和天皇の侍従長)などの俊才とともに薫陶(くんとう)を受けた。そして彼らは将来にわたって変わらぬ友情を育くむことになる。それにしても、東奥義塾が日本のリーダーたるこの俊英たちを輩出したことは、まさに驚くべき事実といえる。
七年、官立宮城師範学校に入学したが、時の校長と対立し退学。九年に司法省法学校本科(フランス法学)に入学。同期生に後の内閣総理大臣原敬や正岡子規の叔父加藤恒忠らがいた。友人加藤の縁で後に正岡子規を援助することになる。しかし、「賄征伐処分問題」に遭遇し、またもや校長を批判、原敬らとともに放校処分を受けた。不羈の精神はすでにこのころから発揮されていた。
十二年、青森新聞社へ入社。本姓中田を陸に改姓するのもこの年であった。翌年には早くも筆禍によって罰金一〇円の刑を受けている。上京し就職運動を展開したが失敗し、北海道紋別製糖所へ。雌伏の時であったが、当時の所長山田寅吉の知遇を得たことの意味は大きい。なぜなら、山田からはフランスの事情を学んだばかりでなく、後々まで後援を頼むことになるからである。山田に伴われて上京、翻訳の仕事を経て十四年から二十一年まで官吏生活を続けた。この時期の学問的蓄積が後に開花し、一大言論人としての道を歩むことになる。二十年、当時の日本は鹿鳴館時代を迎え、欧化主義が高まるとともに国粋主義側の抵抗も一段と強くなる状況下にあり、羯南は官吏を辞し、言論界入りを決意する。
そして、二十二年、新聞「日本」を創刊し、当代の言論界のリーダーとして社会に警鐘を鳴らしていくことになる。わけても、条約改正問題では堂々たる論陣を張り、維新以来の欧化主義を変更させるほど、その政論は圧倒的支持を受けた。
写真243 新聞「日本」
羯南の功績は、名論の誉れの高い「近時政論考」「国際論」をはじめ、多くの社説で「国民」をその思想の根底に見据えて国民論派を唱導し、ナショナリズムとデモクラシーの一体化を首尾一貫して主張したことにある。そして、いま一つには、正岡子規をはじめ、中村不折、佐藤紅緑、赤石定蔵(あかいしていぞう)など、多くの文化人と親交を結び、後輩を育成したことにある。〈北の文学連峰〉は、まさにこの二人、陸羯南と佐藤紅緑の巨峰を起源とすると言っていい。