(二)福士幸次郎の影響

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 コミュニズムを批判し、伝統主義を唱えた福士幸次郎(明治二二-昭和二一 一八八九-一九四六 弘前市)は震災後帰省し、「地方主義の行動宣言書」(資料近・現代1No.七二九)を大正十五年に発表、県内に論争を巻き起こした。福士の影響力はまことに大きく、後輩はその意思をしっかりと受け継いだ。
 福士幸次郎は、明治二十二年十一月五日、弘前市本町五九番地に四男として生まれた。父は弘前市元寺町の「柾木座」の座付き俳優であったが、二十三年巡業失敗で全くの失業状態となり、現在の青森市へ移る。父親が死去後は、もっぱら兄・民蔵の世話を受けることになる。
 三十六年、県立第三中学校(現青森高等学校)に入学するが、二年後中退し、東京の開成中学へ転入。しかし、これも一年後中退を余儀なくされた。漂泊の旅を決意したが、秋田雨雀が説得し、救われた。
 四十一年、秋田雨雀の紹介で佐藤紅緑の書生となる。紅緑がいかに福士幸次郎を頼りにしたかは、佐藤愛子の『血脈』に詳述されている。紅緑を知ることによって千家元麿、人見東明らの自由社に加わり、作を始める。以後、人として名を成すことになる。
 尾上町出身の人・清藤碌郎(せいどうろくろう)(大正一五- 一九二六-)は福士幸次郎の研究を続けていて、その著作も多い。例えば『文壇資料 津軽文士群』(昭和五十四年 講談社刊)の「太陽人・福士幸次郎」の項で次のようなエピソードを紹介している。「鍛冶屋のポカンさん」(明治四十五年七月)のことである。
第一次大戦後これを読んだ棟方志功は、まだ裁判所の給仕時代、ひどく感銘した。志功は、自分も鍛冶屋の家に生まれたが、眼が悪くて家の手伝いにもならず、絵ばかり描いていたので、まるで自分のことのように親近感を感じたという。また、幸次郎のの中にゴッホの名が出ていたりして、志功はこれにまた共感し、「ヨーシ、ゴッホになる」と、一層決心を強くしたのである。幸次郎が帰郷して地方主義運動を起こし、「青森日報」の編集長として青森にいたとき、青森の町中で絵を描いている志功を見て、「志功さんよぐ描げしたネシ」と褒めたという。無名時代、いやそれ以前の志功を最初に認めたのは幸次郎なのである。志功が生涯、福士幸次郎を尊敬していたのには、そんなことも原因になっていたのである。


写真249 福士幸次郎

 福士幸次郎が第一集の口語自由『太陽の子』(大正三年四月)(資料近・現代1No.七二八)で、壇の先頭に立ったことは、周知のとおりだが、棟方志功(むなかたしこう)にまで多大なる影響を与えていたことを考えると、その影響力には、計り知れないものがある、というほかない。
 そればかりではない。特筆に値することは、大正八年(一九一九)八月、弘前に「パストラル詩社」が結成され、その指導に当たったことである。さらに、十二年、関東大震災に伴い、一家を挙げて帰郷し、翌年「地方文化パンフレット発刊の趣意書」を発表。十四年、東奥義塾の講師に招かれ、今官一らの同人誌「わらはど」(同前No.七四二)を指導していることも重要である(資料近・現代2No.六五九)。