大正八年、慶応義塾大学文科予科に入学。同級に八戸市出身の脚本家・北村小松(きたむらこまつ)がいた。十年、今井うらと結婚。十二年、葛西善蔵を鎌倉に訪問、昭和三年の善蔵の死まで交際が続く。善蔵に心酔していた洋次郎がその影響を脱却したときから、独自の石坂文学を確立していったことは、すでに述べた。十四年、弘前高等女学校、翌年、秋田県立横手高等女学校に勤務。昭和二年、「海をみに行く」と「炉辺夜話」を「三田文学」に発表する。四年、県立横手中学校へ転任、十三年まで教員生活を続ける。この一三年間の教員生活が石坂文学のバックボーンとなる。
昭和八年、「三田文学」に「若い人」を発表、好評を博し続編を掲載する。同年「麦死なず」を発表。十二年、『若い人』が刊行されベストセラーとなる。また、映画化もされた。十四年、一家上京し作家生活に入る。十六年と十八年に陸軍報道班員としてフィリピンに派遣される。
昭和十九年(一九四四)、弘前へ疎開し、洋次郎は二十四年まで残った。二十一年、『わが日わが夢』を刊行。二十三年、「石中先生行状記」を「小説新潮」に発表、好評につき長期連載となる。「郷里の弘前市に四、五年間疎開中、人生の経験を多少積んだ大人の目で、生れ育った郷里の風土や風俗を見直して書き上げたもの」と洋次郎は述べている。疎開中のこれらの作品は、地元からは殊の外評価され、大きな影響を与えた。長部日出雄も鎌田慧も、もちろん絶賛してやまない。洋次郎自身も『わが日わが夢』は最も愛着のある作品だと言っている。四十九年(一九七四)、りんご公園に建立された文学碑の碑文はこの作品の「あとがき」の一節をペースにしている。
初めての新聞小説「青い山脈」の成功に自信を得た洋次郎は、二十四年、「山のかなたに」を「讀賣新聞」に発表。以後、次々と全国紙に作品を発表し、いずれもベストセラーとなる。民主主義とは、青春とは、恋愛とは何かを問う一連の作品で、青春物作家、新聞小説家としての地位を不動のものとし、〈百万人の作家〉と称され、吉川英治と双璧をなす国民作家でもあった。四十年の『水で書かれた物語』をはじめ、「ある告白」、「女そして男」などで、著者の言う「原始の無知な自由の世界」の性を描き、注目を集めた。四十二年、直木賞選考委員となり、五十二年まで務める。五十一年、「朝日新聞」に「老いらくの記」を連載。六十一年(一九八六)、老衰のため死去。享年八十六歳。
写真254 石坂洋次郎