昭和十三年四月、学生部会員は一万人を突破、一般会員も一二〇〇人を超え、支部は一五〇を超え、北は樺太から南は台湾、さらに満州に至り、単なる地方書道団体の域を越えて、全国書道会にその名を知られるようになった。八月五日、藤本武山、須藤五雲(すとうごうん)、田沢九子(たざわきゅうし)が、上田桑鳩、手島右卿(ゆうけい)の書道芸術社の夏季講習会に出席したが、帰弘まもなく藤本武山に召集がかかり、軍用行李の底に硯(すずり)を忍ばせて出征、すでに昭和十二年八月には創立発起人横山北華も応召していた。昭和十五年、会顧問は岩田、比田井両氏が相次いで没したので、新たに桑原翠邦、金子鷗亭の両氏が加わった。昭和十六年、太平洋戦争に突入したが、一般部会員は二〇〇〇人に達した。
しかし、昭和十九年、戦局いよいよ急、用紙不足いよいよ大、一、二月号合併号として発行したが『北門書道』は三月号をもって休刊、会は活動を休止した。昭和十六年、第五回大日本書道展で最高金賞を受賞した役員西田山草(にしたさんそう)が、父親とともに二十年八月十日の青森空襲で直撃されて死亡する悲劇が起きた。工藤蘭山は山草に師事していた。
昭和二十一年七月、会は復活したが、学ぶに法帖がなかったため、『書範選』四八頁・一四円を刊行した。楷書は高貞碑外三種、行書は集字聖教序外三種、草書は智永千字文、ほかに和漢朗詠集、宣示表、雲飛経、また、鑑賞資料として李嶠詩、玉泉帖を掲載、当分の間書範として使用した。昭和二十二年三月をもって国民学校は廃止、四月から小学校となり、中学校が三ヵ年の義務制となったが、敗戦の痛手は癒えず、社会も学校も落ち着かなかった。新制高校の書道教科書も未発行のため『高等書範』(四五円)も編集発行した。昭和二十六年四月から小学校の習字が正科となった。そして昭和三十一年には学生会員がふたたび一万人を超えた。