第三十九圖版 牡丹花肖柏消息
【新式今按述作】足利幕府の末心敬、宗祇が物故してからは、諸國連歌の會ある每に論爭の絶間なきにより、文龜二年肖柏は後柏原天皇の勅を奉じて、新式今按を述作し、儼然たる法式を定めた。(續俳家奇人談)永正七年八月後柏原天皇御夢に父帝後土御門の連歌會に侍せられ、肖柏に命じて發句を詠ましめたところ、肖柏は「あし曳の山とをき月を空にをきて月影たかき末のかけはし」の一首を奉つて、發句の意は此和歌の心と同一であると奏した。天皇御夢覺めて之を奇とせられ、卽ち三條西實隆をして、肖柏を池田より召さしめ、九月十三夜便殿に於て、親しく連歌會を催され「空にをきて見ん世や幾世秋の月」といふ肖柏の發句に對して、天皇は「庭にくもらぬたましきの露」と、和せられた。相唱和すること百首、天皇叡感の餘、手づから天盃を酌んで賜はり、肖柏は一世の面目を施した。【春夢草】其夜、此ことを思ひつゞけ「およひなきほとは雲井の夢うつゝあやしき身ともおもほゆるかな」と、詠じたが、後に實隆此ことを敍し、其記を春夢草と稱した。(春夢草)禪僧周麟も亦此ことを記述した。(類聚名物考卷四十四)是より先き、肖柏は伊勢物語註を撰んで後土御門天皇に獻じ、六家詠草中から精華を萃めて、後柏原天皇に獻じた。(古溪筆肖柏夢庵贊)又九代集中から二千餘首を撰んで、初學の捷徑に便した。(古溪筆肖柏夢庵贊)曾て牡丹花の詠に「春咲かぬ花や心の深見草」の句がある。【牡丹花の稱】牡丹花の稱是より起こると。(鹽尻卷之九十三、泉州志卷之一)連俳家が牡丹を以て初夏の部に出すやうになつたのは、此句に基づくものといはれて居る。(續俳家奇人談)
【堺に隱栖す】肖柏野服葛巾、觴詠を樂しんだが、晚年亦攝津の兵亂を避けて堺に來り、豪商紅粉屋喜平の請により老を此處に養ふた。(紅谷庵緣起)現三國ヶ丘町の紅谷庵は其遺址である。【三條西實隆等との應酬】某年四月三條西實隆が、高野參詣の途、堺南庄光明院に止宿の際、彼此相訪問し、五月朔日同院に於て、連歌會を催し、相唱和した。「濱松の名にやこたへしほとゝきす」牡丹花「みしか夜惜きうら波のこゑ」實隆「すゝしきを光に月は秋立ちて」宗磧、などが名句として傳はつてゐる。參詣日記に「夢庵におとづれしかば、頓て尋ね來り、夕つけて又かの寄宿の寺へも罷り侍り。」と見えてゐる。(逍遙院内府實隆公高野參詣日記)寄宿の寺とは、彼の紅谷庵であらう。又或時、堺河内屋宗訊の邸で、歌會があつたとき、瀧邊時雨と云ふ題にて「山姫の瀧のしらきぬ染かねてけふ初時雨さそひ來ぬらし」金光寺覺阿彌の所で、枯野風と云ふ題にて「音をしる友ならすやは下萩にならの枯葉の野邊の朝風」の所詠がある。(堺鑑下)大永七年四月四日享年八十五歳を以て逝去した。(古溪筆肖柏夢庵贊)塔は南宗寺にあるが、恐らく、埋骨の地ではあるまい。大安寺の境域には、古くから其兆域があつて、墳上に墓石が建てられ、由來を鐫刻してある。【堺の門下】堺の門人の主なるものには、宗珀(伊豫)、等惠(靖齋)、下田屋宗柳(葦竹齋)、空盛(常樂寺天神の社僧、吉祥院の中興、權大僧都法印)、盛譽(同松南院の三世、權律師法印)があり、(神國和歌正流血之卷)其他河内屋宗訊、其子宗周(一咄齋)、宗椿等がある。(堺鑑下)【著書】述作の主なるものには、伊勢物語註、新式今按、三愛記、弄花抄、一葉抄等がある。(日本文學者年表續編)
第四十圖版 牡丹花肖柏塔(堺市南宗寺墓域)