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(八)廢向泉寺

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 向泉寺三國山遍照光院と號し、【寺址】寺址は市之町東五丁字向井領町にあり、寺は舊中筋村大字向井(現三國ヶ丘町)の方違神社の附近にあつて、同社の別當であつた。【聖武天皇の勅願所】もと聖武天皇の勅願所、僧行基の開創と傳へ、天平十五年行基、金堂、講堂、鐘樓、樓門等を梵風に擬して之を構營し、【本尊】金堂には自刻の千手千眼觀世音菩薩を、構堂には聖德太子作、橘諸兄の尊信佛藥師如來を安置し學徒坊を構へて之に居り、數十棟の多きに達したと云はれてゐる。其境域は、攝、河、泉の三箇國に接するを以て三國山と號し、【寺號の由來】行基は堂宇創建の前、先づ阿伽井を得んとし、一井を掘鑿し、堂宇の泉に向へるが故に、向泉寺と號し、一に向井寺とも稱したと傳へてゐる。【舊寺領】又聖武天皇は土師下條の一邑を以て寺領に宛てられたと稱し、建武元年永福門院の令旨に、遍照光院領和泉國土師下條向井村を知行すべきのことが見えて居るから、向井村は早くから當寺の領邑であつたことは明かである。又この地三國の街路に當るを以て、行基伏屋一屋を建てゝ、旅人の休泊に便した。後世の三國の茶屋は卽ち其舊蹤である。永正年間兵火に罹り、【移轉】堺市内高野堂の門前に移轉し、爾來寺側南北の町名を向井領町と稱するに至つた。然し古來當寺の奉仕した方違、東原、天王の三社は、尚依然として舊址にあつた(向泉寺緣起)【寺領印】豐臣秀吉は寺領九十石の印を寄せ、德川幕府亦之に倣つたが、明治四年正月上地し、住僧は復飾して祠官となつた。(方違神社調査書)