北十萬は法護山悲田院と號し、【位置】錦之町東二丁字寺町にあり、淨土宗西山派京都禪林寺末、寺格准檀林格である。【沿革】延德二年恩冏衆德の開基に係り、衆德當院創建の後、自ら阿彌陀經十萬卷を書寫して十萬上人と呼ばれ、寺を十萬と稱したが後土御門天皇は悲田院の勅額を、後水尾天皇は北十萬の勅額を下賜せられた。衆德は鰥寡孤獨を隣み、窮民を撫育して之を院内に收容した。(北十萬略緣起、堺鑑中、全堺詳志卷之下)其子孫連綿として境内に居住したが、文化五年之を境外北方稻荷社の西に移住せしめ之を十萬長屋と稱した。(十萬上人略緣起、北十萬境内非人共地所替り一件)當院はもと柳之町濱にあつて、方二町の境域を有し、四宇の坊舍を有したが、天正の兵亂に燒失し、後現在の地に再興せられた。(北十萬略緣起)寬政元年三月の記錄には、瑞泉、慈雲、瑞見の三菴の名が見えて居る。(末寺御改帳)豐臣秀吉は踞尾村にて、【朱印寺領】寺領五十石の朱印を寄せ、德川幕府に至つて永く渝らず、(幕府朱印狀)且幕府巡見所の一にも加へられたが、(北十萬略緣起)明治四年一月上地した。【本尊】本尊阿彌陀如來は惠心作と傳へられ、【堂宇】本堂、庫裏、客殿、茶室、玄關、土藏、納屋、鐘樓等あり、別に鎭守辨財天堂あり、境内七百八十坪。(社寺明細帳)【什寶】什寶に上述の後水尾天皇北十萬勅額一幅、傳惠心僧都筆來迎佛一幅、開山衆德上人木像一軀、豐臣秀吉寺領朱印狀等がある。