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(八)妙法寺

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 妙法寺長榮山と號し、一に二條半と呼ぶ。【位置】中之町三丁字寺町にあり、日蓮宗妙顯寺末で、寺格紫金襴跡。【沿革】興國六年四月日像の高足、法印微妙坊日祐の開山に係る。後天文年中革屋道賀の一族、石津屋宗榮(塔頭報恩坊の檀越)の一門、北向道陳(塔頭圓輪坊の檀越)及び京屋道壽等之を再興し、降つて永祿二年、佛壽坊日現屋根を瓦葺に改めてゐる。(越佐史料妙經寺文書)更らに天正年中に至り、革屋道賀の女妙祐は御影堂を、革屋重善の女譽田屋妙善は刹堂を、其他の檀徒は三十番神堂等を再興した。當時塔頭六坊を有したが、(妙法寺中興之末興隆古老所傳幷日遙現錄及び同裏書)元和兵火に罹り復興の際換地となり、津守領なる今の少林寺の南方の地所を與へられた。當時諸宗寺庵の配當せられた區域は槪ね舊に比して減少せられたが、當寺は京都の茶屋四郞次郞に倚り、同家祖先の位牌所と稱し、政所長谷川藤廣に訴へ、舊に比して百坪を增した。然し南宗寺の再興に方り、舊南宗寺の地域を以て、新妙法寺に宛てんことを計り、檀越茶屋新四郞、京都所司代板倉勝重と親交あつた爲に策動し、又塔頭の報恩坊日任、本地坊日念、法泉坊日儀等奔走の結果、寺域を轉換せられて現地所を與へられることになつたのである。斯くして亦今の御影堂は本山妙顯寺の刹堂を、本堂は同寺の御影堂を移したものである。鐘樓は革屋道也の女妙也の建造、梵鐘は住吉屋千(法名妙法)及び其妹奈良屋長(法名妙也)の寄進にかゝる。(妙法寺中興之末興隆古老所傳幷日遙現見記錄)子坊は創立の初より六坊を有し、寶永元年の記錄には報恩正善慧龍、本行、久遠法泉の六院の名が見えて居る。(堺南北寺院塔頭之諸出家印鑑帳)此六坊を以て本堂を守護し、寺號は時の一老の預りとし、當住を置かずして公用を處理し來つたが、寬延四年に至つて諸坊荒廢して修繕に艱み、顯性院日榮幕府及び本山に出願して六坊を合して一とし、始めて當住を定むることゝなり、日榮住職の任に當り、後其例を襲ふことゝなつた。(妙法寺中興之未興隆古老所傳幷日遙現見記錄裏書)【本尊】本尊は題目寶塔、釋迦、多寶二佛、上行、無邊行、淨行、安立行の四菩薩、持國、廣目、毘沙門、增長の四天王、文殊、普賢の二菩薩である。(社寺明細帳)釋迦、多寶の兩尊は茶屋新四郞、文殊、普賢の二像は奈良屋妙也、四菩薩は筆屋友益、四天王は絲屋長右衞門の母妙源が、各再興の際に寄進したものである。【北向道陳の茶室】北向道陳二疊半の茶室があつたが、今は廢絶して居る。(堺史料類纂)【堂宇】本堂、庫裏、拜所、鐘樓、門及び門番所あり、境内佛堂には祖師堂帝釋天堂、三光堂、鬼子母善神堂の四宇がある。境内千六百坪を有してゐる。(社寺明細帳)【什寶】什寶には日像菩薩作帝釋天像一軀、開山微妙坊日祐筆曼荼羅一幅、朗源僧都筆曼荼羅一幅、日遙筆妙法寺緣起一卷、北向道陳遺愛の手水鉢等があり、【墓碑】境内には道陳の墓碑並に墓標がある。