引接寺は勅定山と號し、【寺址】寺址は少林寺町東三丁字寺町卽ち少林寺の北隣にあり、今は少林寺小學校の敷地となつて居る。【創建の由來】時宗四條道場金蓮寺末であつた。正平二(貞和三)年三宅十五郞の開基で、開山は釋阿智演である。寺は十五郞無量壽佛を祈つて父の病を治し、爲に七堂伽藍坊舍四十餘院を建て智演に開山たらんことを乞ふたのである。光明院引接寺の號は勅定によるものであると傳へてゐる。【勝軍地藏勸請】斯して、同年境内に勝軍地藏を勸請した。社壇は當所甲斐小路の人祐阿の寄進になつた。創建當時は寺の門前より南端に至るまで人家なく、【住吉社務寺地寄進】寺地は住吉の社領であつたが、應永八年四月住吉社務國夏に施入せられた。境域東は宿院より西三十七町、北は今市より南三十八町に至る間であつた。(勅定山引接寺緣起)【足利將軍の崇信】嘉吉二年十一月將軍足利義勝は封田三箇所(五反は石津、七反は下村、三反は同所)を寄進せられ、文明二年九月將軍義政寺領を安堵し、三箇條の禁制狀を與へた。當寺は亦、將軍下向に際し座所に充てられた。大永八年七月幕府寺領の收納嚴重たるべき旨下知狀を與へ、【長慶、信長の禁制狀】永祿七年六月三好長慶、天正元年十一月織田信長等それ〴〵禁制狀を與へた。(引接寺文書)寶永元年の記錄には、【塔頭】正臨菴及び松柏菴の二塔頭の名見え、正臨菴はもと正鱗菴と稱したが、元祿九年八月之を改稱した。(堺南北寺院塔頭之諸出家印鑑帳)【朱印寺領】豐臣秀吉は寺領十石三斗を寄せ、德川幕府亦之に倣ひ、(代々手鑑)明治四年正月上地の際に至つた。【廢合】維新後寺運衰へ、遂に同六年廢絶し、名目のみ正法寺に合併せらるゝに至つた。(堺史料類纂)