松前藩の存立基盤は幕府より認められた蝦夷地の交易独占権であった。そこで、まず慶広は藩の所在する和人地と交易する場所としての蝦夷地を明確にした。東は知内、西は瀬棚の和人地の範囲が、この時までに東は亀田、西は熊石にひろがっていた。したがってこの範囲を和人地とし、それ以北を蝦夷地とし、熊石以北の地を西蝦夷地または上蝦夷地、亀田から東を東蝦夷地または下蝦夷地と称し、知床岬をもって、東西蝦夷地の分岐点とし、東・西地の境、亀田、熊石に番所を置いて、アイヌや和人の往来を、特に蝦夷地行きの盗買船、アイヌの飯米買取船、追鯡船(にしんぶね)、鮑取船を厳しく取締り、アイヌとの交易を独占したわけである(松前福山諸掟)。なお和人とアイヌの居住を分離し、和人地と蝦夷地をつくり出したことは、アイヌとの交易独占を容易にするばかりでなく、和人漁民らの統一的な支配体制確立に必要な条件でもあった。