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紛争後のイシカリの首長

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 紛争後のイシカリの総大将ハウカセの動向についてはわからないが、その後なおしばらく総首長制は残され、それらを通してアイヌを統轄していたと考えられる。『快風丸記事』によれば、「石狩川の惣大将はかるへかと申候。是には脇の蝦夷出合の節かるへか手を出し、蝦夷の頭を押してしはらく指置、手をはなし、のき申候」とあり、カルヘカがイシカリの総首長であるように示している。このカルヘカは、
 エゾ人来候内ニ昔ノ鬼ビシ親ルイ十三人其所々ノ庄屋ノ様ニテ仕置ス此内三人来、カルベカイン、リウシマイン、カウトクイン何レモ装束ニテ……此内カルヘカインハ長命ニテ百二、三十ニモナラント通事ノ者云フ……子廿三人アル由。下男女ノ様ナル者とも三十二、三人のクラシのよし。家ヲ二ツ三ツ作り家々ニわけて置ヨシ……

(快風丸記事)


とあるカルベカインで、彼は「鬼ヒシ親ルイ」とあるので、シコツの長カルベと同一人物であろう。元禄初期にはシュムクルの人々が「石狩川の惣大将」になっていたとされる。なお、庄屋のような役のもの一三人とあるが、それはイシカリ場所の各首長なのだろうか、享保二年(一七一七)の幕府巡見使編さんにかかる『松前蝦夷記』には、
一 蝦夷地之内重立たる者
 一 西蝦夷地ノ方 石狩ト云所ニまたべと申者頭人之よし、石狩え従松前百八十里ほと有之よし
 一 東蝦夷地の方 しこつと云所之者(しこつと申候へ共おしよこつと申所のよし)飛たけと申者頭人ニ候得共十ケ年以前(宝永五戊子年乎)に死其子に雲とりはと申者若年ニ有之候ゆへ同所ニ罷在ちべかと申者頭人申付置候よし

とあり、一〇年以前に亡くなっているが、東蝦夷地のしこつの頭人、「飛たけ」は松前藩の指示で、元禄九年(一六九六)サルアイヌとニイカップアイヌ紛争の調停役を務めたシュムクル集団に重きをなした首長であった。イシカリの「またべ」もこの時期、これに比される頭人と見られていたわけであるが、松前藩士の商場知行地蝦夷地に浸透してくるにつれ、このような主要の首長はなくなってくる。
 寛文の紛争を契機にアイヌに対する松前藩の政治支配が強化され、各首長は藩主にそれぞれ御目見得に出ているが、『松前主水広時日記』の元禄五年(一六九二)五月九日の条に
すつゝ おたすつ 石狩の夷御目見に罷登。すつゝ おたすつ献上物御太刀被下。尤、すつゝ乙名きいく犬継目御礼申上候

また同月廿九日の条に
石狩しゆくばか犬 子(ママ)のはつしやふ ましけ あつた しくつし 茂入六ケ所夷とも御目見に罷登。指上物被下物。あつた酋名しもたか犬継目初て御目見。手印小柾作り一差上。依之江茂支保(えもしぼ)一振被下

とあり、このイシカリの「またべ」も「しゆくばか犬」についても他の関係史料が見出されていないので、シュムクル派に属する首長であるか否かは不明であるが、ハウカセ統率下にあった地域のアイヌの系統は河野広道「墓標の型式より見たるアイヌの諸系統」による分類では、イシカリ川流域のアイヌはペニウンクルとシュムクル派に属し、ペニウンクルは上流の人の意で、近文・ドロカワのイシカリ川上流域に属し、シュムクルすなわち西方の人は昔はヨイチ付近から松前付近のアイヌも含まれていたらしいとされるが、それらの分布は現在の落部、八雲、国縫、長万部、弁辺、礼文、虻田、有珠、室蘭、忍路、塩谷、高島、小樽、札幌、琴似、茨戸、石狩、厚田、浜益とされ、ペニウンクルは風俗習慣その他シュムウンクルに似ており、シュムクルの分派と見られるので、巨視的にはペニウンクルは北部のシュムクルに含めてよいことになる。それで海保嶺夫は寛文期のハウカセの領域と昭和初期のペニウンクルと北部シュムクルの範囲は一致するとして図1・図2のように示している。

図-1 寛文9年の石狩アイヌ


図-2 昭和初期のペニウンクル(印)とシュムクル(T印)北半部