工藤平助の『赤蝦夷風説考』は、もともと時の老中田沼意次の用人の依嘱に応じてまとめられたものであった。その背景について、平助の娘只野真葛の『むかしばなし』に興味あるエピソードが載せられている。ある時、公用で工藤家を訪問した田沼意次の用入が、主人の名前を後世に残しておくには、何をしたらよかろうかと尋ねたところ、父平助は、「さあらば国を広くする工夫よろしかるべし」といい、どんなことかとの質問に、「それ蝦夷国は松前より地つづきにて日本へ世々随いいる国なり、これをひらきて貢物をとる工面をなされかし。日本を広くせしは、田沼様のわざとて、永々人の仰ぐべきことよ」と答えたというのである。
このようないきさつからまとめられたという風説考は、その内容が北辺に出没するロシア船の噂や、北方防備の緊急性や、その対策から開発についての意見まで記してあったので、老中田沼意次に与えた影響は少なからぬものがあった。このため幕府は、天明五年にはじめて大がかりな蝦夷地調査を行うこととなり、幕府普請役山口鉄五郎、同佐藤玄六郎等を蝦夷地に派遣した。
天明五年三月、福山に到着した山口鉄五郎以下三二人の蝦夷地調査隊は、東西蝦夷地の二手に分かれ、松前藩からも案内役人・通詞・医師などが同行した。この時、普請役庵原弥六、同佐藤玄六郎等西蝦夷地調査隊は、イシカリを通ってソウヤへ行き、それより庵原は、下役とともにカラフト島に渡り、東西海岸を見分してソウヤに帰り、ここで庵原は越年している。一方、東蝦夷地調査隊に加わっていた最上徳内は、クナシリ島にまでいたっている。
こうした蝦夷地調査の情報をもとに、翌六年、幕府勘定奉行松本秀持は、普請役佐藤玄六郎と相談のうえ、開拓意見書を老中に提出した。その意見書の概要は、蝦夷地は広大であるが、人が少なく糧食が乏しく、取締りはすこぶる困難である。このためまず蝦夷本島を開墾し、アイヌに農具、種子を与えて農業につかせねばならない。蝦夷本島の面積は、一一六六万四〇〇〇町歩と推定されるが、その一割を開拓しても田畑一一六万六四〇〇町歩を得ることができるだろう。一反歩につき五斗の収穫があるとしても、総額は五八三万二〇〇〇石にのぼる、といった具体的数字を掲げていた。さらに、蝦夷地調査の具体案や諸経費等の調査が必要とされ、佐藤玄六郎等が再び調査を命じられた。ところが、調査途中の天明六年九月、将軍家治の病死により田沼意次は失脚、このため蝦夷地調査は中止されてしまった。結局、一行の調査記録『蝦夷拾遺』が残されたにすぎなかった。
しかし、幕府の最初の蝦夷地調査は、国内に大きな波紋を残した。調査記録が、ロシアの蝦夷地の北辺への南下の事実を明らかにしたので、今度は国防的な見地に立った蝦夷地経営の必要性に目を向けさせていった。
蝦夷地調査の一行に加わり、天明六年の調査ではエトロフ・ウルップ島まで探検した最上徳内の師、本多利明がその人である。利明は、ロシアの南下がまぎれもない事実であることから、蝦夷地開発の急務を力説し、鉱山開発、大船建造、移民のこと、アイヌの「撫育」等を説いた。それが、『蝦夷私考』(寛政元年)、『蝦夷土地開発愚存の大概』(同三年)、『蝦夷開発に関する上書』(同四年)の一連の意見書である。
本多利明の国防論を、さらに強調したのが大原左金吾の意見である。大原左金吾は、寛政七年(一七九五)松前藩の招きに応じて福山に渡り、前藩主道広の諮問に応じた。左金吾は、道広に「国を富ますは墾田より先なるはなし」と説き、漁猟の余力を墾田に向け、農兵制を設け、城を箱館に移して応急の備えを整えることを進言した。しかし、道広の姿勢に次第に失望し、おまけに道広がひそかにロシアと通じて謀叛を企てていることまで耳にし、翌年福山を去って水戸にいたった。左金吾は、彰考館総裁立原翠軒に道広のことを語り、立原翠軒は、江戸の医師加川元厚を紹介、そして加川元厚を介して老中松平信明の耳に入れさせた。『地北寓談』は、老中松平信明の命により同九年、左金吾が福山滞在中に見聞したものを綴り老中に呈上したものであり、また『北地危言』は、北辺防備の具体策ともいうべき意見を綴ったものである。
左金吾の論は、国防上よりの農兵開墾策であり、これを契機に幕府が北門にいっそう注意を払うようになったのは確かである。同八年と九年の二度にわたる英国船プロビデンス号の蝦夷地来航は、同十年の幕府による蝦夷地巡見を行わしめた。異国船渡来が予測されたからである。その巡見の報告にもとづいて、蝦夷地直轄に乗り出したのは、当然の結果であった。