文化三年から四年にかけておこった、ロシア人のカラフト・千島襲撃事件は、文化三年九月、ロシアの正使レザノフが、幕府に通商を求めたのに対し、幕府が半年も回答を待たせたうえに、にべもなく拒絶したのに起因する。使節レザノフは、憤懣やるかたなく帰国し、ロシア皇帝にカラフトの領有を具申、かつ部下のフヴォストフとダヴィドフに報復措置を示唆したという。
文化三年九月、露米商会員フヴォストフは、カラフト東海岸オフイトマリに到来、アイヌの子供一人を連行した。さらに、クシュンコタンの運上屋を襲い、食糧等を略奪、運上屋、倉庫、弁天社を焼き、アイヌの子供のみ釈放して退去した。
この襲撃の第一報が福山に届いたのが、翌四年の四月六日。松前藩では、早速藩兵二〇〇人余をカラフトに出兵した。藩兵は、まもなくソウヤへ引き返し、西蝦夷地シャウ、モヘツ(シャリ、モンベツか)を守衛した。
フヴォストフらは、同四年四月、今度はエトロフ島にあらわれ、ナイボ、シャナを襲った。ナイボでは、番小屋、倉庫を焼き、食糧を略奪し、五郎治ら五人を連行した。また、シャナでは、会所、盛岡藩・弘前藩陣屋を焼き、略奪をほしいままにし、負傷していた盛岡藩の火薬師大村治五平を捕えて出船した。シャナ会所詰めの幕吏戸田又太夫ら、それに弘前・盛岡の藩兵らは、フヴォストフの襲撃と同時に引き払っていた。うち戸田又太夫は、この事件の責任をとって自刃した。
エトロフ島襲撃の報が、箱館に到来したのは、五月十八日。早速箱館奉行羽太正養は、盛岡・弘前藩に増兵をうながし、久保田(秋田)・酒田(庄内)二藩にも臨時人数催促をうながした。これに応じて、四藩は早速出兵準備をし、六月中に三〇〇〇人余が箱館に到着、箱館をはじめ、蝦夷地各地に分遣された。
その一方、フヴォストフは、再びカラフトにあらわれ、さらに五月には西蝦夷地リシリ付近にあらわれた。まず伊達林右衛門の船四隻を襲撃・拿捕し、乗組員はテシオにのがれた。六月には、リシリ湊で官船、商船三隻を襲撃、積荷を略奪した。結局フヴォストフらは六月五日、五郎治、左兵衛以外を釈放して退去した。以上が襲撃事件の概要である。この五郎治こそ、ロシアに抑留中に学んだ種痘を帰国後日本に伝えた最初の人物である。