(前略)蝦夷地ニ至テハ海辺山野トモニ未タ不開。異邦ニ境スト雖トモ其備ナシ。寛政酉年キイタツフ、クナシリ之夷人騒擾ニ依テ領主改正シテ奥蝦夷地ニ番所ヲ建、士人ヲ置ト名ノミ有テ其備甚タ薄シ。非常ノ節其事ヲ告ニ遠隔ニシテ道路ナケレハ急ヲ告ル事アタハス。松前ヨリ武官ヲ差向、其備ヲナサント欲スニ国ノ米穀ナケレハ糧米ニ事ヲカキ、道路ナケレハ路次ニ支テ更ニ急速ノ備ヲナスコトアタハス。
これは、蝦夷地が異国と接しているにもかかわらず、何ら対策も持っていないし、寛政元年(一七八九)のアイヌの蜂起以来、役人を配置しても名ばかりで、一旦非常時には道路もないので急を知らせることさえできないし、かつまた、松前より役人を派遣しようにも食糧も道路さえもないので、まったくのお手上げの状態であることを憂えたものである。そこで重蔵が思案した結果、次のような考えがひらめいたというわけである。
先ツ蝦夷地擁護ノ地幷浦津々ノヨキ警固ノ地ト成ヘキ処エ新規ニ駅路ヲ開ヘシ。是則図ニ赤線ヲ以テ記ス。且石狩ヲ御奉行処又ハ領主地頭ノ居所トシテ擁護ノ地トナサン事其処ニ記ス。(中略)蝦夷地浦々ノ内山陰追送ヨキ湊へ御陣屋又ハ御番所等十一ケ所ホト取立其辺浦々ヲ守ラシメン。是江差、箱館ヲ以知ルヘシ。其処ニ□印を附ケ大概ヲ記置、如是ニシテ非常ノ事有テ石狩ヨリ武官差向トキハ忽ニ其処ニ至ヘシ。而石狩ノ広野ヲ開テ耕作ノ地トナスベシ。凡高百万石其米穀ハ百万石余ニ可及如是。国産ノ米穀有トキハ海辺浦々ニ至迄糧米ニ支ナシ。其余東南西北海辺附ノ広野ヲ開トキハ石狩ニ又二、三倍スヘシ。大豊饒国トナラン。
これを要約すると、①新規に駅路を開くこと、②イシカリを奉行所あるいは領主・地頭の居所とし、擁護の地とすること、③蝦夷地内の防衛上適した湊に陣屋もしくは番所を一一カ所ほど設置すること、④イシカリ平野を開墾すること、その産出高は米穀一〇〇万石余におよぶであろう、といったものであった。ここで注目されることは、イシカリというのはこの場合イシカリ川河口を指したものではなく蝦夷地の中央にあたる上流域を指し、ここを擁護の地として奉行所あるいは領主・地頭の居所にすべきだと説いた点である。ゆえに、イシカリ川河口はその擁護の地への入口であり、出口であるといった発想であった。
ところで、駅路を開いたり、警備の役人を配置するための施設を取立てる資金としては、何をあてるつもりであったのだろうか。概説四カ条目は、まさにそのことに言及している。
石狩川鮭漁凡一万二千石目、此仕入代金凡六千両、蝦夷榀凡六千石目、此仕入代金凡四千両、何レモ運賃共積立合金五万両程是松前蝦夷地今之分量ニシテ則国ノ本ナリ。本ヲ知テ行ハスンハ事ヲ成コト難シ。此五万両ノ仕入金ヲ以テ元手トシ、交易売払金ヲ以テ新規駅路幷ニ守護人居所浦々警固ノ場所可取立凡三ケ年ニシテ其事成就スヘシ。又石狩ノ広野凡十ケ年ニシテ可開。其余ノ広野ハ其後可開。而後右ノ元手金五万両ハ浮金可成積リ。又交易売払金ヲ不用シテ急速ニ国土ヲ開カント欲トキハ凡十万両ノ雑費可入。是五年ニシテ山野海辺共其全キ事ヲ可行也。
まず一つには、蝦夷地内漁場の仕入金五万両をもって資金源とし、交易による利益金をもってそれらにあてれば、三年間で成就するであろう。二つには、イシカリの原野を開墾した場合およそ一〇カ年で開くことができるであろう。その時、仕入金五万両は浮金となる。三つには、交易による利益金を用いないで急いで国土を開墾しようとする場合は、およそ一〇万両の雑費を投資すれば、五年にして全域におよぶであろう、といった方針が説かれている。漁業資金の充当である。
そして、図上で黄色に色分けしているイシカリ川流域全体の耕地としての見込みについては、概説の「追加」で次のように説いている。
此石狩ノ広野ハ東西北ヲ山ニテ囲ム。依テ寒風薄海気ノ烟霧ヲ防共形南西ハ開ケテ常ニ陽気ヲ受ケ中程大河有テ其枝流尤多養水ニ不足ナシ。後世勧農之道至ハ凡百万石ノ良田タルベシ。石狩ノ曠野凡竪五十里横二十里ト云。田法三千歩ヲ以テ一町トシテ此町数百五十五万五千二百町歩。但平野ト雖トモ至テノ低地ハ湿気多ク五穀実リカタシ。山根ハ岳地多如是処ハ地味薄ク是又実カタシ。且ハ外林、秣場、道堤、川敷地等ノ分凡八分道、此町数百三十万五千二百町歩、右惣町歩ノ内ニテ除之残二分此町歩二十五万町歩耕作ノ積、土地ノ位上中下平均石盛皿ヲ以テ積立、石狩ノ耕地凡高百万石トス。
これからしても、イシカリ川流域の耕作適地は二五万町歩、これを石高に見積っても高一〇〇万石としている。重蔵が現地を見分することなしに、このような石高を算出しているのは、天明五年(一七八五)から翌年にかけての佐藤玄六郎らの蝦夷地見分に関する資料を再現した感さえうかがわれる。
以上が、近藤重蔵が寛政九年に幕府に提出した『蝦夷地絵図』に盛り込まれた概要である。これは、近藤がこれ以後松前蝦夷御用取扱に任じられて、文化四年(一八〇七)のいわゆるイシカリ要害論をまとめる基礎となっていった。