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堀利熙の再訪

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 荒井金助は七月下旬前には、前任者の長谷川儀三郎と引継をすませたようだが、ほどなく九月七日に堀利熙が再度、イシカリの廻浦に訪れた。利熙は六月二日にイシカリを出立した後、ソウヤ・シャリ・ネムロ・トカチ・ユウフツを廻り、この日は千歳川を下り、イシカリ入りをするのである。今度の再訪の主目的は、廻浦中に金助がイシカリ詰となったので、イシカリ改革につき金助と協議することにあったのであろう。また、前回指示しておいた諸件の視察もあったと思われる。
 そのうち、ハッサム在住地サッポロ越新道の視察について、玉虫左太夫の『入北記』が、その様子を伝えている。それによると、堀利熙は九月九日夜に、ハッサム在住の新宅に着きここで宿泊し、翌十日に視察をおこなった。『入北記』は、「以前トハ大ニ相違シ、川岸ニ二、三戸落成ス。畑地二、三丁歩モ開ケ、川岸ニハ土手ヲ築キ其景色目ヲ驚カス程ナリ」と、ハッサムの在住地の開発がすすんでいる様子を伝えている。この後、ホシオキへむかい、新たに落成した三戸の在住宅をみ、この夜は銭箱に宿泊した。十一日は新道を視察しながらトヨヒラの通行家にいたる。通行家とはいえども、まだ普請中で「丸小屋同様」であった。ここで宿泊し、翌十二日に千歳の会所へ向かう。利熙は二十七日に、永い廻浦の旅を終え箱館に着いている。
 利熙の六日間におよぶ再度のイシカリ廻浦中、金助は利熙に同道したとみられるが、両人がどのような協議をなしたか不明である。しかし、イシカリ改革へむけての準備とプランの作成を、金助へ命じたことは確かなようである。『公務日記』によると、十月十八日に、「石狩一件金助調出来、織部方へ出ス、同人附札ニテ廻シ有之」と記され、金助による調査書が送られてきている。調査書は十九日には組頭へさげ置かれているが、同書にはイシカリ場所において、支配人などによるアイヌへの非道も報告されていたようで、二十一日には、テシオ請負人栖原六右衛門と共に、イシカリの村山(阿部屋)伝治郎に対し、「土人遣ひ方非道之儀有之ニ付、心得方申渡」がおこなわれている(第六章参照)。