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イシカリ役所の創設

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 イシカリ改革の実施にともない、イシカリ場所全般の行政・司法をつかさどる機関として創設されたのがイシカリ役所であった。
 イシカリ役所は、これまでのイシカリ詰の役人の編成をそのまま継承したものではあったが、役所の組織下に漁場・流通・アイヌの「撫育」を担当する改役所(あらためやくしょ)をおき、従前の請負人の職掌をも統轄する役割をになうようになった。ここでは、改革後のイシカリ役所の動向をさぐってみよう。
 まず最初に着手されたのは、旧請負人である村山家をはじめとし、新たに加わった出稼人への漁場の割渡しである。つぎに、改役所の設立、流通をになう御用達の任命などである。以上の事柄の詳細は第二章に譲ることにし、ここでは主に行政的な項目を述べることにしたい。
 イシカリ改革の実施にともない、第一に手がけられたのは、建物の移管である。五月には制札場、弁財天・稲荷亀鮫社、龍神社、武器蔵、勤番所、備物蔵の移管がおこなわれた。役人が詰める勤番所の統轄・管理が、請負人の手を離れ、ここにはじめて〝政商分離〟がはかられたのである。勤番所は一棟で、桁間一六間、梁間六間半、坪数一〇四坪という宏壮なものであった。当時の勤番所は、現在の石狩町弁天町に所在し、村山家の旧運上屋に隣接していた。この勤番所を新たに役所(御用所)として、対岸の八幡町に移設し、役宅などを新築する伺いが、この十一月に出されている。これが、「石狩場所改革之儀ニ付、相伺候書付」(市史六五頁)である。
 これによると、旧運上屋の場所はイシカリ川の屈曲部にあたり水難の恐れがあり、地積も狭隘で不充分なために、対岸に役所地区を設け移転することが述べられている。御用所の移転・普請費は一六五両、役宅は調役調役下役・同心・足軽が各二軒、文武稽古所ならび教授方住居が一軒で、これら九軒で九〇〇両、総額一〇六五両の予算であった。経費については、箱館奉行所蝦夷地御入用金からの支出を申請している。普請は翌六年に完成し、四月二日にここに移っている(ヨイチ御場所見廻り日記)。各役宅の見取図は、図2~4のとおりである。
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図-2 調役下役の住宅
 
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図-3 同心の住宅
 
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図-4 足軽の住宅