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城六郎の北地出張

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 城六郎クシュンナイイシカリ出稼所を担当するようになり、これ以降毎年、クシュンナイへの出張が続く。このために、万延元年(一八六〇)三月二十五日に、調役梨本弥五郎がイシカリ詰となり、四月二十四日に着任する。これによりイシカリ役所調役は、兼任の六郎を含め三人となった。
 城六郎は、万延元年の場合、弥五郎の着任と前後して北地(クシュンナイ)出張にでたとみられるが、この時の史料は残っていない。つづいて翌文久元年(一八六一)の場合、「北地内状留」(村山家資料)に一端がうかがわれる。それによると、六郎は五月初旬にイシカリを出発し、八日にソウヤに着き、十二日にシラヌシに渡海した。これ以降の報告はないが、別に金助の家来である中村精一、漁場取締役の横山喜蔵などの報告があり、クシュンナイの様子がつぶさに語られている。六郎は、つぎの文久二年にも出張し、閏八月三日頃にイシカリに戻っている(ヨイチ御場所見廻り日記)。
 城六郎の北地出張は、文久三年が最後となる。カラフトのノダサン以北は、安政三年以降、松川弁之助を差配人とした箱館奉行の直捌がおこなわれ、イシカリ出稼所もその直捌体制の一環をになうものであった。しかし経営収支があわず、ついに元治元年(一八六四)に直捌をあきらめ、再び伊達林右衛門栖原半六による請負制にもどされた。これにともない、クシュンナイイシカリ出稼所も廃止となったのである。クシュンナイ場所は、漁場一二カ所、建物三一カ所よりなるも(御直場引渡一件)、成績は不良で一万七一〇〇両余の損金であったという(経営内容については第四章参照)。
 クシュンナイには、イシカリ役所の役人・番人などが越冬して、出稼所の取締りにつとめ、同心広田八十五郎のような死亡者も出している。クシュンナイは、北地(カラフト)詰の勤番所があり、西シララオロ、ナヨロ、ウシヨロに詰所がおかれていた。イシカリ出稼所の設置により、このクシュンナイを「石狩詰之附属」とし(白主御用所御用留)、イシカリ役所の〝分領〟にしようとする動向もみられた。