なお、目付グループには福山築城検分という役割が後に付加された。もっともこれは堀が箱館奉行に任命された結果であるから、調査団に当初から課せられたものではない。しかし、堀一行にしてみると調査行程に組み入れざるをえず、旅程の中に追加された役割の一つであった。
これだけ多人数の調査団であるから、各グループの全員が同一コース同一日程で行動したのではない。そのうち、各責任者とそれに同伴した一団を本隊と呼ぶならば、目付グループの本隊は安政元年三月二十八日江戸出発、十一月二十八日帰着、勘定方グループの本隊は、堀の前日出発、十月十日帰着となる。前者は五月二十一日イシカリに到着し一泊ののちカラフトへ向かい、後者は二日後の二十三日イシカリ着、昼食休憩のみをイシカリでとり、宿泊することなくカラフトへ急いだ。
表-1 調査団本隊の行程
この本隊のほかに多様な別働隊があった。堀グループの河津三郎太郎、村垣グループの水野正左衛門等は先発隊として二月二十九日江戸を出発し、本隊よりほぼ一カ月早く、五月十五日カラフトに到着したが、うち水野は帰路クシロで脳溢血を患い急死する。また郡司宰助、山本悌三郎は四月十六日松前に着くとすぐエトロフ島調査に向かいカラフトには行かなかったし、後に紹介するように本隊を離れ千歳越によりイシカリに至る人、帰路東蝦夷地を回らずイシカリを再検分した人、さらに船行により往復ともイシカリに足を踏み入れなかった人など様々であるが、メンバーの大半は本隊に属していたから、この調査行において、二、三百人が春のイシカリを目の当たりにしたはずである。
これらの人々の眼にイシカリはどのように映ったのだろう。安政元年のイシカリの現況を理解するためにも、調査メンバーにより書き残された記録からイシカリの様子をうかがうことにする。