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『野作東部日誌』

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 安政三年の蝦夷地調査の道程は、榊原銈蔵、市川十郎により記された『野作東部日誌(えぞとうぶにっし)』に詳しい。これによると、一行は箱館を出立後、東蝦夷地を巡廻し襟裳岬(えりもみさき)に至っている。日誌には各地の地理・地形、各場所の建物や様子が詳細に記されている。この年はさらに、シャリ(斜里)まで行ったようだが、襟裳岬以東の日誌は残されていない。
 この年の調査の折、一行はイシカリにも立ち寄っている。千歳を経由して七月二日にイシカリ入りをし、六日に再び千歳に戻った。イシカリについて、日誌は以下のように記している。
石狩
名義未詳。布留(フル)ヨリ五丁。運上家幷勤番所有[東部ハ会所ト唱、西部ハ運上家ト云。東地文化度御領ノ時改メ会所ト唱ラレシヨリ今ニ然リ。此所夷家百軒余人口六百人有テ、秋味漁盛ナル場所ナリ。]石狩川海ニ落入、川口ニ至リテハ幅五丁余モ有。大木ノ根ヨリヌケテ流レクルガ、両岸ニ横タハリテ夥シク有[川筋何レノ所ニモ有シガ、此辺ハ海湖ニサヘラレテ、タダヨフト見ヘテコトニ多シ。]運上家ハ海岸ヨリ二丁半東ニテ、是ヨリ東南ハ渺々タル曠野ノミ。海岸北ノ方ニ麻志介山(マシケヤマ)見ユ。木綿張山(ユフバリヤマ)ハ卯辰ノ方ニ見ユ。
石狩西岸ニ近キ運上家ニ一日逗留シテ、七月四日マタ同ジ川筋ヲノボル。キノフヨリ川水増テ瀬早ケレバ、ノボリ舟ハワヅラハシトテ、大材ヲ彫穿タル舟ニテ長サ五間計リ、幅ナカクニテ二尺ニタラズ。狭クテ膝ヲ屈ムルバカリナリ。舟ノヘリヘ楢ノ木ノ朶ヲ丸ウタツメ建テ、其上ヲ例ノ「キナ」ムシロニヲホヒタレバ、折々カヽゲテ両岸ヲ望ムノミ。サマザマノ虫舟中ニ入来テ、コウシヌ[蛇殊ニ多シ]水ノ増セシ事七八尺計ナルベシ。下リ舟ニ見シ時ハ、木草ヲヒタル岸ナリシ、ミナ水ツキタレバソレニシタガヒテ、川幅モヲモヒノ広クナリヌ。大木流レクル事夥シ。折々舟ヲ乗懸テコウセシ也[舟中ニテ蟬ノ鳴ヲキクニ、内地ノ油蟬ト云モノニ似タリ。]

 安政三年の調査はシャリまで行ったが、しかし「門人三人甚不居合ニテ、品々意味有之」(公務日記、安政三年十月二十一日条)と、不和が生じたようである。安政四年になり榊原銈蔵から脇屋省輔に交代したのも、これが原因のようである。
 安政四年の調査は、今度は西蝦夷地をまわり、カラフトの北部にまで至っている。さらに、再び蝦夷地をまわり、この年はイワナイで越年して五年三月に箱館に戻っている。また四月にはイシカリにも来ている(後述)。四、五年の調査の道程は、断片的にしかわかっていないのであるが、カラフト、西蝦夷地、道南六カ場所を巡回していたようである。