老中家臣にとどまらず、多くの藩が蝦夷地に関心をそそぎ始めた。目的や方法はそれぞれちがっても、蝦夷地の実態を詳細につかみ、急転する状勢を的確に知ろうと努めたのは同じである。幕府は蝦夷地の警衛と開墾のため有力藩を参入させるかもしれないという噂が広まると、蝦夷地調査熱はとみに高まり、安政四年五月には「諸侯既に十有余藩、豪商既に十余軒」(燼心餘赤)が、規模の差はあっても何らかの活動を行っていたという。本節はそうした動向の中で、イシカリ・サッポロがどのようにとらえられていったかを、まず水戸藩の場合からうかがうことにする。
前時代にひきつづき御三家の水戸藩は特に強い関心を蝦夷地に注ぎ、こと北地を論ずる者の多くは水戸藩と何らかの関わりを持とうとしたから、おのずと水戸に情報が集まり、またここを源として諸藩に状勢が伝わった。九代水戸藩主徳川斉昭は弘化元年(一八四四)幕府から藩主の退任と謹慎を命じられ、その座を一三歳の子に譲るが、若年を理由に三大名が水戸藩政を後見することになった。この異例ともいえる処分を受けた理由の一つは、斉昭が執拗に蝦夷地を水戸藩に与えるよう内願しつづけたためという。斉昭にいわせると水戸藩は奥州羽州の押(おさ)えとして、徳川家康から位置づけられ、蝦夷地が水戸藩の領地になることは「第一は天下の御為と成、次には我等が勝手の為にもよく、又是まて開けぬ地を開くにおいては忠勤の名も御世迄伝る」(不慍録)ことができると主張した。
まもなく謹慎処分は解かれるが、復権は容易に認められず、嘉永二年(一八四九)後見解除によりやっと藩政への参与が実現、さらに同六年アメリカのペリー艦隊来航を機に、幕府の外交顧問として幕政に参与することになった。以後、斉昭の蝦夷地発言は一段と活発になるが、他方藩内に斉昭の言動に反対する門閥派が形づくられていき、斉昭の蝦夷地についての主張が、すなわち水戸藩政方針となったとはいいきれない。
斉昭は幕政参与になると、早速国防の強化を論じた十条五事の建議を行い、翌安政元年(一八五四)堀・村垣調査団が北地に派遣されることになり、箱館周辺の上地が検討されると、これに反対して全島上地を強く主張、調査団に石山作之丞、庵原菡斎、安田鍬蔵等を伴わせ北境に移住させるよう働きかけた。それらはいずれも幕府の聞き入れるところとならず、日米和親条約締結に憤激して幕政参与を辞任してしまう。しかし、阿部老中は斉昭との協調の絆をたたぬよう配慮し、箱館奉行の設置や人選、蝦夷地の警衛見込等について相談をもちかけた。
安政元年八月、斉昭は再び幕政に加わり、「松前蝦夷一円、何とぞ公辺へ御引上げ、……此方より開拓鎮撫いたし候方第一の急務」(水戸藩史料)と訴えた。また重ねて松前藩の移封と全島上地や北地開拓の即時実施を論じ、箱館奉行が考えた蝦夷地南方からの開拓に反対、まずロシアと接する奥地から着手すべしと建議したが、安政二年五月には箱館奉行の方針に同意を与えた。このころをもって斉昭の蝦夷地警衛開拓建議はみられなくなり、もっぱら蝦夷地殖産に心を用いるようになっていった。