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戸石永之丞の調査

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 幕府から安政二年三月蝦夷地警衛を命じられた仙台藩は、三好武三郎を中心に東蝦夷地の大がかりな調査を行い、警衛持場を仙台藩の預地とするよう幕府に願い出た。他藩は三好らを評して「大艦をも作り天文海路等も調へ、満腹蝦夷地を取り候仕組なり。是迄の頑藩には近来の出来物なるへし」(島義勇 入北記)と、驚いた。藩政改革気運のみなぎる安政三、四年は、仙台藩蝦夷地に対する関心が前向きに転じ、新規に始動する時期である。幕府の命による役務としての警衛に、もっと広い視野から対処し、持場にのみ固執せずカラフトを含め全蝦夷地に目を注ごうとした。たとえば藩命をおびた蝦夷地巡回にその例をみることができる。
 警衛のため多くの士卒が持場に詰めているが、それとは別務として箱館奉行の承諾をとり、安政三年十一月五日、小納戸松坂右膳と奥小姓戸石永之丞の二人を西蝦夷地から北蝦夷地まで遊歴させることにした。当時仙台藩の動きに深く注目していた佐賀藩の報告では、戸石のほか塚本幾之進の名があり、松坂がみえない。松坂は遊歴を命じられた十日後に目付に就任しているので、あるいは遊歴の任を塚本と交代したかもしれぬ。受命は十一月だったから当然翌春を待って仙台を出立したであろう。そうすると『蝦夷地見聞之次第奉申上候』(宮城県図書館蔵)を二人の復命書とみなしてよい。
 これによると、遊歴は一〇〇日間を予定し、安政四年二月五日仙台発、三月二十一日箱館に着き、造船鋳銭など箱館奉行の新事業を視察、当然のことながら外国人の動静に注意をはらった。そのあとエトロフ島までの仙台藩陣屋を視察し、警衛の現況と問題点を調べ、また道中他藩の陣屋所在地を回り、自藩と対比し改善策を練っている。その途次、イシカリ・サッポロを通り、「蝦夷地開墾等の見込有之由にて江戸表より罷下り、イシカリ領ハシサブ、ホシホキ辺え在住仕候輩」として山岡精次郎以下一一人を記している。ハッサム在住開始初年の見聞である。
 サッポロの記事が在住にしぼられていることに象徴されるように、二人の関心は警衛問題をのぞけば、蝦夷地開墾の可否と、それが仙台藩の国益となりうるかいなかにあった。この調査を身分をかくさず藩として行ったこと、調査地域が渡島半島に限られず全蝦夷地を対象とした意義は大きい。もっとも内偵活動も継続し、江戸を舞台に昌平校ゆかりの人、水戸藩関係者、藩黌養賢堂を訪ねる人などを通して新情報を吸入した。さらに幕府や他藩からの摂取もおこたらず、視野を拡大する中でイシカリ・サッポロの所在が浮かび上がってきたといえる。
 安政三、四年以降、仙台にもたらされた蝦夷地情報は多量なものになった。ただ量が増えただけでなく、最新の信用度の高い正確なものであった。そうした中でイシカリ・サッポロの情報も増強されたろうが、それを象徴するような重要な活躍をしたのが玉虫左太夫である。