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山田家の出稼

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 前幕府直轄以後、ユウフツ、サル場所からイシカリへの山田文右衛門出稼漁場は着実に増加し、再直轄時、シップの浜に大網一、イシカリ川筋に小網一四の合計一五カ所一五統を持ち、イシカリの和人網では阿部屋六に対し山田は四にあたる。これから推計すると山田出稼水揚高は年平均二〇〇〇石以上と考えられ、イシカリ鮭荷物の約三〇パーセントを占める。天保後期からのイシカリ鮭漁高の上昇は、東蝦夷地の先進漁法を身につけた山田の出稼に負うところが大きいといえよう。

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写真-12 山田文右衛門

 このうち、川口からバンナグロまでは阿部屋が早くから手がけてきた引場だったから、入会網(いりあいあみ)とする場合は阿部屋二統に対し山田一統をたてまえとしたらしく、「〓 二回、〓 一回の割合に網を曳く」(石狩場所 札幌市街 石狩町資料)というのはこれを説明しているのだろう。ここの出稼役は三七役といい、水揚の三割を阿部屋に納めた。その上流、サッポロブト(現茨戸付近)の上よりエベツブトまでは山田が新規に開いた引場が多く、「鮭漁場数多のケ所、自費を以て新開」(山田文右衛門履歴)したと伝えられ、そこにむしろ阿部屋が入会する形となったから、網数は対等で出稼役も二八役であった。
 山田の場増設はさらにつづき、安政四年(一八五七)に浜中の川口西方、エベツブト近くのホリカモイ千歳川筋の三カ所で新たに引場を開設することが阿部屋と話し合われ、箱館奉行所の承認を得た。ここで注意したいのは、これにともなう冥加金五〇両が運上金に上積みされ、阿部屋を通して箱館奉行所に収納されたこと(市史一一頁、『公務日記』安政四年六月十一日条、同二十二日条)。もう一つの留意点は新規の浜中引場(川口西方)へ実際に出稼したのは梶浦屋五三郎瀬川屋孫兵衛だったこと。山田以外に固く扉を鎖してきたイシカリを、隣場所オタルナイまで押しよせていた出稼勢力に、わずかではあるがついに開かざるをえなかったのである。
 これらをイシカリ改革へ向けて高まる足音と聞きとることができるだろう。