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写真-12 山田文右衛門 |
このうち、川口からバンナグロまでは阿部屋が早くから手がけてきた引場だったから、入会網(いりあいあみ)とする場合は阿部屋二統に対し山田一統をたてまえとしたらしく、「〓 二回、〓 一回の割合に網を曳く」(石狩場所 札幌市街 石狩町資料)というのはこれを説明しているのだろう。ここの出稼役は三七役といい、水揚の三割を阿部屋に納めた。その上流、サッポロブト(現茨戸付近)の上よりエベツブトまでは山田が新規に開いた引場が多く、「鮭漁場数多のケ所、自費を以て新開」(山田文右衛門履歴)したと伝えられ、そこにむしろ阿部屋が入会する形となったから、網数は対等で出稼役も二八役であった。
山田の鮭場増設はさらにつづき、安政四年(一八五七)に浜中の川口西方、エベツブト近くのホリカモイ、千歳川筋の三カ所で新たに引場を開設することが阿部屋と話し合われ、箱館奉行所の承認を得た。ここで注意したいのは、これにともなう冥加金五〇両が運上金に上積みされ、阿部屋を通して箱館奉行所に収納されたこと(市史一一頁、『公務日記』安政四年六月十一日条、同二十二日条)。もう一つの留意点は新規の浜中引場(川口西方)へ実際に出稼したのは梶浦屋五三郎と瀬川屋孫兵衛だったこと。山田以外に固く扉を鎖してきたイシカリを、隣場所オタルナイまで押しよせていた出稼勢力に、わずかではあるがついに開かざるをえなかったのである。
これらをイシカリ改革へ向けて高まる足音と聞きとることができるだろう。