イシカリ役所は困窮した出稼人へ、応急の米塩を貸し付けたが、その返済が滞る一方で、ついに文久元年(一八六一)五月貸付を停止した。この際、次のように出稼人に申し渡した。
(前略)上納相滞、右は連々御貸附高莫太に相成のみにて、返済方は不捗取、諸失費多分相懸り、右様の次第故、既に越後国佐藤道逸等え御任に可相成候ては、役々並に取締役以下、是迄骨折も無之相成、且詰合御人減は勿論、取締り役以下は、道逸奴僕の如く追廻され、或は暇など出され候儀は眼前
(市史二八〇頁)
という様子であった。ここで注意しなければならないのは、出稼人と金主(仕込みや融資をする人)と改会所の関係である。貸借の不均衡は出稼人の自主的漁業経営を不可能にし、両者の間に立つ改会所を含めて金主への従属化をまねく。金主は負債の方(かた)に引場を掌中に収め、また出稼人を自家の雇人のように左右し、イシカリ漁業を牛耳る程の勢いを見せてきた。
前文の佐藤道逸は越後の松川弁之助グループの一員。イシカリとカラフトの一体的直捌制にともない、松川は北蝦夷地差配人元締として参画、文久二年多額な損失を理由にカラフトから手をひくが、一方オタルナイ船改役を足場にイシカリ漁業に進出する。松川の親戚(鳥井)権之助は文久三年金沢藩(加賀)に意見書を上呈し、イシカリを含めた西蝦夷地一三カ所の分領出願をうながした。
(前略)石狩は鮭漁一式にて、平地凡五、六拾里の中央に大河有之。船々入港、至て地広、西地の中央に有之。東浦ユウフツ迄三拾里余、山中無之、左右は遠山高く、追々は田畑新開の見込も有之、至て要地に御座候。右は迚も御大家に無之候ては御持切も相成兼候儀と奉存候
(ロバート・G・フラーシェム他 鳥井権之助と加賀藩への意見書)
この目論見は実現しなかったとはいえ、越後松川グループのイシカリ漁業進出は佐藤広右衛門の名により、着実に展開していったことを表9からうかがい知ることができる。