改革で直捌制が導入されたことと、箱館産物会所の開設はけっして無縁でない。この線上にも経済効果は期待された。
まず江戸に会所をつくり、江戸に入る蝦夷地産物はすべてここで特定の商人により独占的に売買させ、上納金を幕府財源に組み込もうという計画。安政四年八月には問屋小宿に「北蝦夷地の内御直捌御荷物は勿論、東西蝦夷地御請負人積送幷手船買請荷物共、不残御会所において御取締に相成」(松前箱館雑記 一〇)ことを認めさせた。場所請負人との妥協で成り立つ第二次直轄経営ではあるが、たとえ箱館奉行所が蝦夷地の場所を直捌としても、出産物の販路は心配なく、かつその売却益が幕府財政に寄与しうるとなれば好都合である。
その後、大坂、兵庫、堺、敦賀、京都に会所、出張会所、売捌所等が置かれ、蝦夷地産物の幕府による統制流通は拡大する。さらに上方商人の出資を求め、会所はこの資金を蝦夷地での生産者に貸し付ける元仕入仕法をとり入れ、また鉱山開採、養蚕機織奨励、陶器や紙の製造等をもつかさどり、その生産物を各地に販売するようになっていった。安政五年、イシカリ川両岸を根本とする開発方御用取扱を許された喜三郎(三国屋金四郎)の主要任務は「今般江戸大坂え会所御取建相成候に付、同所え相迴候品は会所宛にて可積送」(水戸大高氏記録 二六)である。すなわち、イシカリ改革にともなう直捌と産物会所を結びつけ、有効に機能させる仕事を担ったわけである。また、阿部屋は赤字経営を理由に、イシカリ本陣守の返上を願い出るが、イシカリ役所の口ききもあったのだろう、産物会所から多額な漁業資金の融資を受け、この返済は明治新政府に引きつがれていった。
箱館産物会所設置とほぼ同時に行われたイシカリ改革は、阿部―堀田政権のもとですすめられた蝦夷地産物の流通統制政策に深くかかわり、松前藩の経済基盤を崩しつつ、場所請負人、問屋小宿など在来の勢力と複雑な矛盾をからませて、近代への道をたどったのであった。