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カラフトへの足場

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 プチャーチンによる開港と国境画定要求、ネヴェリスキーのクシュンコタン占拠以来、急展開をみせた対ロシア外交に、イシカリ改革が果たした役割は小さくない。
 幕府は安政元年(一八五四)堀・村垣調査団をカラフトまで派遣し、ほぼ北緯四八度、すなわち西海岸はクシュンナイ、東海岸はマアヌイ辺をわが国の北方開拓前進基地として整備、それより北側は日露両国が入会う出稼漁猟地とする案を持った。ところが、ロシア側もこのあたりを南下の拠点として着目、安政四年クシュンナイに兵屋を建てはじめ、翌年はマアヌイに柵営を構え、東西を連絡するカラフト最狭の四八度線は、両国守攻の地となる。幕府はカラフト警衛を久保田藩(秋田)に命じる一方、東海岸を松川弁之助とその一統、山田文右衛門、米屋喜代作等に開拓させ、クシュンナイを中心とする西海岸の前進基地は箱館奉行が直接開拓にあたることとした。なお、ここより北、北緯五〇度までの間は勝山藩(東海岸)と大野藩(西海岸)が願い出て開拓経営についた。

写真-17 カラフトを調査する佐倉藩士(北蝦夷画帳の内)

 イシカリ改革にともない、イシカリ場所は箱館奉行の直接管轄運営する土地になったので、ここを足がかりにしてカラフト開拓を推進することになる。いいかえれば、カラフトのクシュンナイ直捌のためにも、イシカリの掌握が必要となり、イシカリ役所はイシカリとクシュンナイ両地の直捌を一体的にとりしきることになった。イシカリ役所は前述(第一章)のように、改革の年いち早くクシュンナイ経営の準備にあたり、翌安政六年から出稼人を送り直捌を開始する。そこへの出稼人の多くはイシカリ永住出稼で、しかもクシュンナイ出稼人という名目になる。イシカリ直捌との違いは、出稼人への仕込みまで箱館奉行所の名で行ったこと。だからクシュンナイこそ〝直場所〟の名にふさわしい。通称としてイシカリも直場所と呼ばれたが、奉行所は原則としてこれを認めなかったのは(市史六二頁)、イシカリの和人に対する仕込みを役所がしなかったからだろう。その後変更もあるが、この体制は文久三年まで五年にわたって続き、元治元年(一八六四)伊達林右衛門栖原六右衛門に委ねる。
 イシカリ改革はカラフトの直場所経営を支える上で、行わなければならなかったし、クシュンナイをめぐる日露紛争をわが国に有利に導き、国境画定へ向けての対ロシア外交上、一定の成果をおさめたといえよう。