新道御開拓之儀、昨年御受請中御受仕、昨年中ハ大通切開候儘ニテ、当年中皆出来之心懸ケニ御座候処、此度出稼ニ被仰付候ニ付テハ如何相心得可申哉、乍恐伺上候
これによると安政四年中には「大通切開」をなしたのみで、五年中に完成する予定であったという。しかし、イシカリ改革により請負を差免されたため、新道切開の継続工事はどのようにしたらよいのかという伺であった。これに対しイシカリ役所では、「新道之儀ハ手入等致し候ニ不及候事」と答え、以後はイシカリ役所により完成させることになる。
ところで、村山家資料中にはサッポロ越新道に関係する史料は伝えられておらず、工事の経費、出役人数、里程、道路規模、進捗(しんちょく)状況等々はまったく不明である。工事そのものは、「村山伝兵衛履歴附属概表」(河野常吉編 石狩場所請負人村山家記録)によると、四年夏より秋にかけ施工されたようである。岩村通俊が記したといわれる「札幌開拓記」には、「安政四丁巳年四月中、千歳より札幌通銭箱迄新道切開之見込を以、飯田翠儀石狩千歳之土人を携踏分ケ、同七月中新道落成」と記し、四月から七月になされ、飯田翠(豊之助)がアイヌを引率して施工したことが述べられている。「七月中新道落成」というのは、他に明証もあり信頼してよい。安政四年十二月に、阿部屋の元イシカリ場所支配人である能登屋円吉がまとめた「覚」には、「巳年ハツシヤフ川さらひ、ハツシヤフ・ホシホキ御在住御役宅御普請、新道切開見廻、壱里塚境杭建テ之事」とあり、「新道切開」はサッポロ越新道をさし、一里ごとに境杭もたてられたようだ。