武四郎は再び本道に出で、ハツシヤフ(発寒川)を渡る。ここには麁朶橋(そだばし)が架けられていた。渡橋前のホンナツチヤには、炭焼小屋が多くできていたという。在住がひき連れてきた農夫が建てたものであろう。ハツシヤフには、後に番所がおかれることになる。武四郎はこの後、サツホロ川(豊平川)のトイ(ヨ)ヒラに至る。
トイヒラには渡舟場と通行屋が所在した。舟はあいにく対岸にあり、同行のハッサムのタケアニは馬にて対岸に渡り、丸木船を廻送してきた。通行屋は二棟の茅小屋(かやごや)であった。この夜、武四郎はここに宿泊する。銭箱より五里半程の距離であったという。まだ渡守等もおらず、通行屋は無人であったが、シコツのハレタク、定山渓の温泉帰りの和人二人、案内のハッサムのハレテレキ等が一諸となり、「心も大にいさみ、夜もすがら四方山(よもやま)の事を話し明しぬ」ということであった。
翌十九日は小雨の中を出発し、チキシヤフ(月寒川)、アシュウシベツ(厚別川)をすぎ、シユママツフ(島松)川に到着した。この川はイシカリ・ユウフツの境界で、川を渡ったところに小休所二棟が建てられていた。ここまでトイヒラより五里で、この後、千歳川の番所に至っている。新道はここまでで、武四郎は新道開削の「御所置の如此草萊の地開になりしはと感涙をもゆうし(催し)けるなり」と、感慨を記している。