『荒井金助事蹟材料』の中には、当時イシカリ役所の足軽であった亀谷丑太郎の聞き取り調査が収録されている。丑太郎によると、鉄一について以下のように談話されている。
志村鉄一ハ江戸の人なり。(石狩在勤ニテ漢学及弓術指南)鈴木顕輔の家来にて、石狩に来りしを荒井氏之れに命じて宿屋守としたり。通行屋ハ間口十間、奥行四間なり、鈴木の家来にして俸禄なき故に、世間ハ浪人といひしならん。
これによると、志村鉄一は鈴木顕輔の家来であったという。また通行屋は、間口一〇間、奥行四間の規模であった。
鉄一がイシカリ在住で、学問教授方の鈴木顕輔の家来であった可能性は高い。鉄一の名前が初見する史料は、ある在住がイシカリよりカラフトのトンナイ詰となった折に記述した、『従西蝦夷地石狩宗谷渡海、北蝦夷地白主より同西浦富内迄道中日記』である。同書によると、筆者は安政六年(一八五八)八月七日に、イシカリを出帆している。その節見送りに来たのは、在住の高橋靱負・中村兼太郎、及び鈴木豊太郎の三人であった。またその外の見送人の一人に、「志村鉄一郎」があげられている。在住の二人のうち、靱負・兼太郎はイシカリ在住で、鈴木豊太郎は鈴木顕輔の子弟とみられる。イシカリ在住に鈴木の姓をもつ在住は、顕輔の他にはいない。鉄一は主人の顕輔の子弟につきそい、離任する筆者の見送りに同行したのであろう。
当時、在住は家族のほかに家来を二人くらいは従えており、他に農民も四、五人を率いてくるのが一般であった。鈴木顕輔は、イシカリ在住兼学問教授方として安政四年七月三日に、箱館を出発する(公務日記)。その折に志村鉄一も家来として江戸から同行してきたのであれば、鉄一のイシカリ入りは安政四年の七月中旬となる。