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吉田茂八

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 志村鉄一とならび、通行屋に深い関係をもったのが吉田茂八であった。再び『荒井金助事蹟材料』の亀谷丑太郎の聞き取り調査によると、茂八は丑太郎がハッサム番所に勤番していた安政五年(一八五八)から文久元年(一八六一)頃の間に、「荒井(金助)氏に上申の上、茂八を抱へて豊平川に置きたり」とされている。居住した家は、城六郎の建てたものを移設したという。場所は『札幌区史』によると、鉄一のいた通行家の対岸で、現在の南四条東四丁目付近であった。ただし、『さっぽろ昔話』などでは、豊平側に鉄一と並び居住したともいい、伝聞は異なっている。また茂八は猟師を業としたというが、ハッサム番所では軽物交易の皮革類を収集しており、そのために丑太郎によりとりたてられ、さらに豊平河畔にむれて来るエゾ鹿の狩猟のために、ここに居住せしめられたと思われる。
 吉田茂八は福山(松前)の出身で、明治元年(一八六八)七月に、大友織之助(亀太郎)扱いのサッポロ(察歩路)村永住とされ(大友亀太郎文書)、サッポロ村の人別に組み入れられている。茂八は明治に入り請負業をいとなみ、札幌本府の建設に寄与する。明治四年(一八七一)に開削された、南六条より南三条までの堀割(現創成川)は、吉田堀と称され特に名高い。