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北方領土問題とアイヌ

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 箱館開港を契機として安政二年(一八五五)二月に、和人地とされた東部木古内村、西部乙部村の以南を除き、蝦夷地全域が松前藩から上地され再び幕府の直轄地とされた。これは文化四年(一八〇七)の直轄につぎ二度目なので、第二次直轄という。
 第二次直轄となった要因は、主にロシアとの北方領土問題であった。その中でもとりわけ、カラフトの帰属をめぐる問題が大きかった。この領土問題の中で、アイヌの向背が重要な位置をしめていた。当時、日本ではアイヌを日本の付属民と認識し、アイヌが居住する地域を日本領土と考えていたからである。それは逆に、アイヌロシア側に好意をよせることは、アイヌ居住地域がロシア領土にかたむくことを意味していた。これゆえに、アイヌの「撫育」ということが非常に重視されていた。
 アイヌの「撫育」が必要とされたもう一つのおおきな理由は、場所請負制によるアイヌ民族の衰退、アイヌ社会の疲弊の問題であった。周知のようにアイヌは、場所請負制下にあって場所支配人番人などにより、交易・労働などの面で種々の搾取をうけ、民族的な差別と抑圧をうけていた。そのためにアイヌの人口は大幅に減少し、アイヌ社会の存立基盤も危機的状況をむかえていた。特に阿部屋(村山家)の経営になるイシカリ場所は、アイヌへの対応が「以(もって)ノ外不宜場所第一」(玉虫左太夫 入北記)とされていた。