先に供与された鍬は、農業奨励のシンボルの役割をはたすものであったが、供与されるやいなや、支配人から取り上げられる事件が発生した。このことはすぐ奉行衆の耳にはいり、返却の命令があっていったんは戻された。しかし、廻浦の一行がイシカリを離れると、再び取り上げられたのである。これに対し同心広田八十五郎は、支配人に対し返却を申付けたが、いっこうに戻されなかった。やっと戻されたのは、武四郎がテシオ(天塩)の調査を終え、イシカリ入りした七月五日以降であった。その戻された鍬も、「古き刃先の欠しや、また𣟧(柄)の折れしや、重さ百匁に成候や、一切に遣はるべきものとては一挺も無かりし……」と、使用ができないものばかりであった(丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌、以下『丁巳日誌』と略記)。このように阿部屋により農業奨励策が妨害されていたのは、阿部屋の請負人としての立場からくるものであった。それはアイヌが農業をおこない生活面で自立することは、請負人への依存・隷属の状態から脱却することであり、請負人にとっては労働力を失い、漁場・交易の利益を失うことになるからである。それ故、「元来土人等は魚肉を喰(くら)ひて居るものに(が)、米喰等をいたすと夷神(アイノカモイ)が怒れる故、土人等に悪き風流行して土人等が死ぬ程に、其故何も人間(シシャモ)の直(真か)似をする事なかれ」と、番人は「夷神」をもちだして妨害をはかっている(丁巳日誌)。さらに、日本語の使用や和人風俗に改めることに対しても、同様な言辞を述べていた。
アイヌが和人の服装・外形、あるいは名前を和人風に改めた「帰俗」調査によると、安政五年の段階でイシカリ場所は、五四三人中わずか二〇人で(後藤蔵吉 蝦夷日記)、割合はわずか三・七パーセントにすぎなかった。これはトカチ(〇・二パーセント)・クシロ(三・五パーセント)につぐ低い数値である。なかにはオショロ(七六・四パーセント)・ネムロ(七〇パーセント)・ヨイチ(六〇・一パーセント)などのように、非常に高い数値を示している場所もある。このような場所は、かなり強圧的な強制がおこなわれた。「帰俗」政策そのものにも問題はあり、その評価は別にしても、イシカリ場所で低い数値しかみられない背景には、請負人側のアイヌへの民族的差別、および箱館奉行の政策への対捍(たいかん)(反抗)があった。
ちなみに、人別帳で和人風の名前をもつ者は、安政三年では一三人ほどいる。総人別六五五人のうち、名前判明者六三二人の割合でみると二パーセントにあたる。慶応三年では六人で、名前判明者四〇六人の一・五パーセントにあたり、なかには和名を忌避し、アイヌ名に変更した者もみられるが、数値的にはおおきな変化はみられない。これは安政三年の段階では、阿部屋により前記の理由で、和名の推進がなされなかったことによる。一方、イシカリ役所となっても同様であったことが、慶応元年の人別帳によくあらわれている。この理由は種々考えられるが、「帰俗」政策そのものが再検討され、実行のみなおしがなされたからであろう。