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写真-3 「石狩土人惣人別取調書上帳」の表紙(石狩町 田中実氏蔵) |
この人別帳の最末尾とみられる断簡に、「合家数百拾五軒 此人数四百三十九人 内訳男弐百弐十七人女弐百十弐人」とある。また、ハッサム・中川・上川・ユウバリの四地域の総計もみられる(表2)。この総計によると、総軒数は一一五軒、男女合計数は四三九人となり、先の数値と一致する。これは慶応元年の人別帳は、先の四カ地域ごとに集計されていたことを示し、安政六年の場合と形式的に同一の可能性が高い。
慶応元年の人別帳は、人数では三二四人、軒数では八五軒ほどを残存部分から確認できる。人数では全体の七三・八パーセント、軒数では六七パーセントにあたり、そのうち軒数で完全に残っているのは七一軒分である。
ところで、四カ地域に番所が設置されるのは安政五年十一月以降である(村山家資料 新札幌市史 第六巻)。この時、上川チクツヘツ(現秩父別町付近)、中川トツク(現新十津川町付近)、ユウバリ、サッポロの四番所がおかれた。サッポロ番所の勤番人は足軽亀谷丑太郎となっているが、丑太郎は後にハッサム番所の担当となる。これはサッポロ番所はおかれず、ハッサム番所に変更になったためである。