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在住の任命

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 本節以降では、現在の札幌市域に重点をおきつつ、イシカリ役所直支配地に入地した蝦夷地在住、すなわちイシカリ在住と呼称されたもの全体を対象として記述する。
 在住制が制定されると、願に基づき江戸において在住が任命されるが、任命された在住の、イシカリ・ムロラン等入地地域の決定は、在函の箱館奉行が行った。在住が箱館に到着すると、奉行はそれに面会して入地地域を申渡したが、その際、「心得方達書渡ス」、「巨細申達ス」などという文言がみえ(村垣淡路守範正公務日記―以下『公務日記』と略記)、在住に対して、かなり詳細な指示がなされたとみられる。また時には「同人見込書出ス」、「見込様子……承ル」、「見込等承ル、紫根麻等植立方見込、南部ニ知人有之、先年当地エ渡候事も有ルよし、南部農夫呼出度申聞ル」などと、在住の方から計画を提示した場合もかなりにあった。在住の農民招募、営農などについて、奉行はかなり入念なチェックを行って、成功を期したとみられる。
 江戸における蝦夷地在住の任命は、安政三年(一八五六)の九月に始まっており、十月以降かなりの数の在住が箱館へ向け江戸を出立したが、その中には、イシカリ在住となった弓気多内匠、同源之丞、永田久蔵、高橋靱負大竹慎十郎なども含まれていた。また翌安政四年三月から五月にかけては山岡精次郎中川金之助中嶋彦左衛門、秋山繁太郎、同鉄三郎、葛山幸三郎などがイシカリ在住を申渡された。さらに翌五年にかけて鈴木顕輔天野伝左衛門軽部伝一郎、同豊三、中村兼太郎金子八十八郎畠山万吉などが発令され、入地した。このほか武光武弥、生島文右衛門、塩田準庵のように、一度イシカリ在住を命じられたが、間もなく他の場所詰を命じられ、イシカリへは入地しなかったものもみられる。このほか水戸藩では、安政二年十月に在住送り込みの意見があったが、実現はしなかった(第三章第二節)。