これについてイシカリ在住として軽部伝一郎ほか一名の在住宅の平面図が見出されたので、これを紹介する(図1)。なお同居の鈴木豊太郎は、文久二年五月に学問所に入塾願を出しており、その中にたとえば軽部三吉というおそらく軽部伝一郎か豊三の息子らしい名もあり、鈴木は在住鈴木顕助の息子ではないかと思われる(北地内状留)。とすれば、対等の同居ではなく、軽部が鈴木をあずかっている形であろう。
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図-1 在住役宅平面図(石狩町 田中実氏蔵) |
この図から計算すると、面積は三三・五坪であるが、うち大きな土間が一一・二五坪で、それ以外が二二・二五坪となる。かなりの面積を土間が占めているのは、特に農家の建物がおそらくきわめて不充分な分を補う必要も付加されていたのであろう。さらに田中氏所蔵の史料で他に若干みられる役宅と比較すると、足軽役宅が二〇坪強、同心役宅が四七坪で、土間を差し引いた面積では、在住役宅は足軽のそれとほぼ同規格ということになる。なお、佐倉藩士今村治郎橘の『蝦夷日記』によれば、安政四年八月に、在住が一一人いてハッサムには在住宅が五軒、ホシオキに三軒あり、あとはまだ普請していないとされている。
在住役宅の建築は、安政四年に場所請負人の阿部屋が請負うこととなり、その『巳年(安政四年)石狩御場所勘定帳』の「仕入物」の項に一一四両一朱余の金額が「御在住家其他共大工作料高」と但書きされており、収入としては七五〇両余が「御在住家御普請入用金箱館御役所御下ケ金」とされている。仕込物中材木など材料費は品目別になっており、その内の在住住宅分に大工手間賃を加えて御下ケ金の金額が算出されたのであろう。軒数は記載されていないが、安政三年五月の蝦夷地開拓等費用に関する箱館奉行の上申書では、在住宅一軒一二五両と見込まれているから、これによれば六軒ということになる。なお、イシカリ改革の際、阿部屋からイシカリ役所に対して提出された伺中、これについては「御在住様御役宅御普請之儀幷御買上之儀如何相心得可申哉乍恐奉伺上候」とあり、「其方御都合次第ニ可致事」(村山家資料 安政五午年石狩改革一件)と付箋が付されているが、前出『勘定帳』も、翌五年から在住居宅建設は出て来ない。おそらく阿部屋では行わなかったのであろう。