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イシカリ在住の入地

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 第七・八章でのべたように、在住制あるいは大友亀太郎を担当者とした御手作場設置等によって、現在の札幌市域内に、和人による農業集落が形成されて「村」と呼称され、村役人もおかれた。しかしこの村は、本州方面はもちろん道内和人地の村と、どのような共通点あるいは相違があって、具体的にどのようなものなのか、ほとんど明らかにされておらず、本巻でも史料の制約から、この解明は困難である。したがって本章ではこの問題には立ち入らず、村と呼称された集落について判明したことを記述するにとどめる。
 また、明治以後発寒・篠路・札幌村の三村は、開拓使による村の設置を行った形跡が、今のところ見当たらない。おそらくこの三村は、開拓使から既存の村として認知されていたものと思われる。
 さらにハッサム村、中嶋村等は在住制によって成立した村であることから、記述の必要上、第七章と多少重複する場合がある。
 ハッサム村は、安政四年(一八五七)二月に箱館奉行によってイシカリ在住入地の中心地と位置づけられたことに始まる。同年から翌五年にかけて同地のリーダー格とされる山岡精次郎をはじめ、秋山繁太郎(吉郎)、同鉄三郎、大竹慎十郎軽部伝一郎、同豊三、永田休蔵、弓気多源之丞、同内匠、松井八右衛門など、一〇人程度の在住が入地した。在住制は、在住手当等を支給される在住が農民を招募し、その開拓した土地は、在住が在地するかぎり永久に下しおかれ、一定の鋤下年期をおいて年貢を徴収することを骨子としている。したがって多くの在住が農民を招募した。今のところ山岡精次郎、永田久蔵、秋山繁太郎などの例が知られているが(第七章参照)、他の在住の多くも招募を行ったとみられる。なお、ハッサム村の在住数は、文久二年(一八六二)六月には「五軒」に減少している(今井宣徳 蝦夷客中日記)。