奥羽における戦乱の終結後、約一万七〇〇〇入におよぶ会津降伏人の処置に軍務官は苦慮していた。ここで軍務官副知事の職にあった大村益次郎は降伏人の蝦夷地移住を考え、徴士兼内国事務局権判事で箱館在勤を命じられて、箱館裁判所(府)に属していた堀真五郎にその適地を諮ったところ、堀は発寒・石狩・小樽内の三地を挙げ、かつその移住方法をも立案した。ここに軍務官の要請により太政官は明治二年二月二十日次のように箱館府に対し指示した。
かくして軍務官は堀にその支配を命じて準備にとりかかったが、箱館戦争のため進捗しなかった。
時あたかも中央政府の官制大改革が明治二年七月八日に施行され、軍務官も箱館府も廃されてそれぞれ兵部省、開拓使として新制された。また八月十五日に蝦夷地を北海道と改めて一一国八六郡の行政区画を画定し、さらに北海道の分領支配に基づいて同月二十日には石狩・小樽・高島の三郡を兵部省に割渡すにいたった。
この間軍務官・兵部省は準備を進め、石狩詰参事席井上弥吉を兵部大録に任じ(開拓使出仕も兼務)、石狩役所を本拠としてその経営に当たらせた。小樽内役所はその下に属し、主任に小山房一郎を任じて小樽・高島の二郡を管した。さらに二年六月に、出張中の箱館において、大友亀太郎も堀真五郎より諮問を受け、翌七月五日に軍務官(兵部省)の石狩国開墾係に転じて会津降伏人開墾場の造成に従事するのである。大友は帰着後八月よりはじめは苗穂の開発にあたるのであるが、十月より当別開墾地の開発に転じ、測量と伐木の業より着手した。
他方、会津降伏人の第一団男女三三八人が九月十三日に小樽に着し、さらに十八日には一〇六人も到着した。この時衝に当たった井上弥吉の言によれば、「同九月降伏人百戸(約四百余名)移住セシムヘキノ命アリ、之ヲ引率シテ石狩ニ出張、与市、古平、忍路、小樽、銭函ノ各浦ニ仮住セシム、是ヨリ秋田地方ニ交渉シテ家屋建築ニ着手セシモ、雪中ハ穴居同様ニテ三年ノ春トナレリ」(北海道遭難之記)とあり、また会津降伏人の状況も惨たんたるものがあった。
ところで、以上のような兵部省管轄のもとに会津降伏人処置の事業が着手して進展し始めた矢先に、開拓使は札幌に本府を建設しようと、明治二年十月に開拓判官島義勇以下が赴任し、同月十二日に小樽郡銭函に開拓使仮役所を設置して、直ちに着業したのである。兵部省の膨大な降伏人開墾場の造成とその受け入れも、また開拓使の威信をかけた本府建設も、共に大事業であり、それが同時・同地域で競合することとなったのである。いずれも労働力と資財の確保が必要であろうし、特に冬季をおしての着業のため、人足等の衣食の保持は重大な関心事であった。開拓使側は、その補給のための当然の拠点と目される石狩と小樽内を兵部省によって抑えられており、物資の供給に苦慮した。ここに世にいう開拓使と兵部省の確執なるものが生じ、政治的問題に発展するのであるが、これらに関することは次巻においてふれられるであろう。