ビューア該当ページ

サッポロ大府への展望

1021 ~ 1022 / 1039ページ
 以上のように、海陸の交通の要衝であり、北蝦夷地へ向けての前進拠点でもあり、さらに現実に漁業の主要生産地を形成していて、後背にひかえる広壮な平地には樹木繁茂し、農業生産の可能性を充分秘めたこのイシカリ地域を、識者は放置するわけにはいかなかった。古くは近藤重蔵より、先述したごとくに箱館奉行所のみならず幾多の幕吏・藩士らが、この地域に大きな関心をいだいていたのであった。嘉永七年八月に編修された水戸彰考館の『北島志』においても、イシカリの地に対し「地勢四通八達、若拓其地而用之、真可以建国府控夷地也」と述べている。松浦武四郎蝦夷地全域におよぶ縦横の調査の結果、やはりイシカリ地域をもって、「当地第一の枢要」の地となさざるをえなかったのである。
 武四郎はイシカリの地域のあり方について、その『西蝦夷日誌』において以下のように論じている。彼はまずイシカリ論の原点ともなった近藤重蔵の意見、すなわち「津石狩(対雁)に大府を置ん」とする見解に対し、「余其地を春の雪融・秋の暴雨にしば/\往来して実験」した結果、「此地に府を開んには、禹王再誕の後ならで難かるべし」との結論にいたった。ツイシカリはイシカリより一〇里石狩川をさかのぼり、豊平川(旧サッポロ川)の石狩川への注ぎ口で、しばしば氾濫して流路をかえる地であった。しかしなおイシカリ地域の重要性を認識していた武四郎は、さらに「其辺を探索」し、ついに「ツイシカリ川(豊平川)三里を上り、札縨・樋平(トヒヒラ)の辺りぞ大府を置の地なるべし」と確信し、なおそれをツイシカリの乙名ルピヤンケならびにサッポロの乙名モニヲマにも再三ただした上で、竹内、堀、村垣の三箱館奉行に対して、サッポロに府を建置すべきことを申し述べたという。
 そしてさらに建府後のイシカリ地域をめぐって、次のように構想しているのである。
他日此札幌に府を置玉はゞ、石狩は不日にして大坂の繁昌を得べく、十里を溯(さかのぼ)り津石狩は伏見に等しき地となり、川舟三里を上り札縨の地ぞ帝京の尊ふ〔と〕きにも及ばん。左有時(さあるとき)は、ユウフツ東海岸は北陸・山陰の両道にも及び、手宮・高島は兵庫・神戸の両港にも譬(たと)ふべき地とならん。また札幌より新道を切らば、臼(ウス)・虻田(アブタ)・岩内(イワナイ)の地も其日の便を得、東上川々筋より天塩・十勝の地にも何日か馬足を運ばさしめん

 これは『西蝦夷日誌』五編の巻首の凡例の文であるが、同編の本文中では次のような表現もみられる。
余按(あん)ずるに、此辺(サッポロ)に府を立まほしく思ふ。左候はゞ石狩を大坂とし、津石狩を伏見と見、川筋三里を上り爰(ここ)に府を定め、銭箱・小樽をして尼崎・西宮とし、手宮に沖口を立て、後年兵庫・神部(こうべ)に比さんと。従此川虻田(アブタ)・有珠(ウス)に道を開かば其弁理如何計(いかばかり)ならんと。

 この両者には表現に多少の違いはあるが、いずれにしても、彼の構想において、サッポロに建置すべき大府を京都に比定し、それのみならず、そのサッポロをめぐるイシカリならびにその外縁地域をもって、畿内の瀬戸内にのぞむ日本枢要の地域にすら対応させているのであった。武四郎の蝦夷地経営方法の行きつくところ、サッポロを中核とするイシカリ地域を、単に交通の要地とか北蝦夷地への前進拠点としての機能に留めるものでなく、まさに蝦夷島全域支配の発現の地として認識するに至ったのである。ここに新たな曙光がサッポロに映え始めたといえるであろう。