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東久世長官らの赴任

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 東久世の長官任用が内定した明治二年八月二十四日の夜、岩倉は島義勇・岩村通俊・岡本監輔の開拓判官を招き、東久世の長官就任と北海道への迅速出発のことを示談している。その結果来月五日には出帆可能との結論に至り、さらに翌日にも「嶋始メ開拓人々同人邸ニ集会、専ラ評議ノ筈ニ候」「開拓輩……夜白勉励」などと岩倉が報じているように(大久保関係文書 一)、赴任の準備が急速に進められていた。北地問題の大きな課題の一つは、特に函泊事件の一報以来、可及的速やかに北地に赴くことであった。それは現地での即刻の対応・措置のためということもさることながら、他に渡海可能な時期の限界が迫っていたからでもあった。九月五日に出帆可能といっても、この日を新暦に直すと十月九日に当たり、航行の限界に臨んでいたのである。
 そして広沢の備忘録によると八月二十六日「北海道并唐太開拓之議事あり、来月五日出帆、孰も渡海と相決」した(広沢日記)。八月二十七日にはより具体的な移住計画が開拓使より岩倉に提出されている。それによると、宗谷―役々上下二一人・良民一〇〇人・職人三〇人、根室-役々上下二〇人・良民一〇〇人・職人三〇人、樺太―役々上下六〇人・良民二〇〇人・職人一〇〇人、函館其外諸場所役々―人数凡三〇〇人余、石狩移住―数百人(市史 第七巻)、となっている。さらに八月二十九日には赴任物資の輸送のためと考えられるが、咸臨丸昇平丸の二船が大蔵省から開拓使へ移管された。
 他方、東久世長官の就任にともなって、多少人事にも論議があった模様である。八月二十五日大久保宛の岩倉書簡に「東久え清水谷不埒云々ハ書状ニて得と申入置候」「開拓始末[清水嶋]等之事、条公え得と申置候」との文面がある(大久保関係文書 一)。清水谷不埒の件は、清水谷が開拓使設置の際それに抗議すべく上京してそのまま帰函していなかった行動に対するものと思われるが、結局清水谷は北海道出張のメンバーにも入らず、この年九月十二日に開拓次官を被免されている。島に関してはすでに八月二十一日「島四位云々御評議も候得共、矢張如旧函館出張可然歟」(岩倉関係文書 七)とあり、さらに先の岩倉書簡に対する大久保の同日付返書中「島えハ早速申達当分開拓属ハ取止ニて……」(大久保文書 三)との文言もあり、この頃何か島の身辺に問題が起こっていたことがうかがえる。しかし開拓判官のまま北海道へ赴任した。
 ともあれ、八月二十六日東久世開拓長官、島開拓判官、船越兵部大丞、丸山外務大丞、岩村開拓判官、岡本開拓判官、谷元外務権大丞、得能開拓権判官の八人に対し、「北海道開拓御用太儀被思食」て慰労のため酒肴を賜わった。さらに九月三日天皇は赴任する面々を召見して御沙汰を下し、絹・綿の品および酒肴を賜い、また三条右大臣より四項の諭示があった。この時出席したのは前記官員のうち船越が抜け、竹田・松本の両開拓判官と杉浦開拓権判官が新たに加わった一〇人であった。かくしてまず岡本・丸山・谷元らが農工民を伴い、ヤンシー号で樺太へ向け九月十日品川を出帆(九月二十二日久春古丹着)、そして九月二十一日東久世以下が農工民二〇〇人と共に、テールス号にて品川を出帆したのである。