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札幌本府経営と兵部省支配

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 二年十月十二日銭函に入った島判官らは、早速当役々上下七、八〇人ほどをもって本府建設の基礎事業に取りかかった。その事業着手に当たり、札幌と接する石狩・小樽両郡を支配する兵部省との協議が当然必要であった。当時の兵部省石狩詰の上位官員は、兵部大録の井上俊二郎、同桜井文二郎であった。その井上と島とが同年十月に交わした当初の協定書がある。それは六項を含み、一項は山林の伐木手順、二項は新川新道の利用手順、三項以下は境界に関する事項で、トウベツとその近辺、シノロ、ハラト・ハンナコロの近辺の国郡境界の件となっている(兵部省開拓使取極書 北大図)。これらは本来協議すべき事項の一部に過ぎない。
 しかし協議の最初から島をはじめ開拓使官員は、兵部省に対し大きな憤懣をいだき、両者の間に確執が生じた。十月二十三日付島の松浦宛書簡によると、それは井上の人物が「心得違ト相見」え、偏論のみを唱えて「着掛ケヨリ万事不行届ノ義ノミ」であったことに起因する。例えば島たちが乗り込んでくるや、兵部省小樽役所は厚泊から銭函までの宿駅に対し、次のような布達を出していた。
当今北海道御開拓相成候ニ付テハ、以後時々他領ノ諸役入往返可致、其節通行取扱トシテ人馬継立御定賃銭可受取ハ勿論ニ候得共、追々下々ニ於テ迷惑不少事ニ付、右通行取扱ノ外諸荷物為運送人馬差出、或ハ船々ヨリ諸品陸揚致シ候時ハ、素ヨリ相対ノ心得ヲ以相当ノ賃銭受取候様可致事
 但シ当役所御用ノ義ハ格別ノ事
(市史 第七巻)

というもので、さらに島は「兼テ人気悪キ弊風ノ土地、役頭ヨリ右様煽惑致シ候様ノ所置有之候」と述べている(同前)。海岸線の揚陸地を管轄領域に持たない開拓使にとっては、兵部省の行為は開拓使に対する妨害ないし忌避と受け止めたのである。またすでに太政官により容認されていた会津降伏人の人選に関しても、「偏論を発シ人撰不致ニ付誠ニ当惑之次第ニ御座候」(諸場所来状留附属書類 北大図)と、降伏人採用も拒否されている。
 そこで島は「此儘ニ致シ置候テハ開拓ノ御趣意迚モ不被行候ニ付」、ここに一つの提案をした。それは小樽・高島の二郡と浜益厚田の二郡の管轄地所を、兵部・開拓の間で交換することである。「左モ無之候テハ石狩国ニ本府ヲ立、開拓ノ創業相立候見的絶テ無之候間、迅速断然タル御所置有之度」と、在京の松浦に政府と掛合うことを依頼した。さらに三条・岩倉・大久保・副島らにも談ずべきことを指示している(市史 第七巻)。また島は同月(十月)二十九日に函館の東久世・岩村に、同日岩倉にも同文の書信を発している。
 これに対し東久世・岩村は十一月十六日「兵部省より出張候井上俊二郎等主意取違候て不都合有之趣、且小樽高島之二郡当使え被相附度御懸合ニ付、此度幸得能権判官登京致候間、猶又兵部省ヘモ打合候様いたし候」と回答している(同前)。