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昇平丸の運航

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 この昇平丸は、長官や判官達と同じ九月二十一日品川を出港した。行先は「函館并銭箱」であった。乗船者は仙台藩石川源太家来佐藤小作郎・町田十郎・井上三郎、東本願寺家来松井逝水・源光寺・長巌寺・山岡新助等である。荷物三九個、函館銭函行きの米一三〇二俵を積み込んでいた(開拓使公文録 道文五七〇二)。別な史料には「米千五百俵」とあり、内訳は一〇〇〇俵は函館、五〇〇俵は銭函とある(諸布達并大蔵省定額金之儀照合書類綴込 道文一六五)。しかし実際には、増上寺関係者や清水谷家士など他にも乗船していた。むしろ東本願寺関係者は二十一日になって俄に延期したようである(増上寺史)。昇平丸は、その後表3にあるように、十月二十四日函館に到着した。東本願寺関係者以外は、その二十四日に函館への到着届を出し、東本願寺は二十五日に到着したとして、二十六日に到着届を出している(日記 道文三二二一)。
表-3 昇平丸の運航表
年 月 日状  況
2年 8月29日昇平丸咸臨丸の所管布告
9. 21品川出帆
9. 23浦賀出帆~九十九里方面翻弄
9. 24伊豆網代入港
10. 17南部宮古出帆
10. 24函館到着
10. 29船司浦田伊助、積荷監督信沢銀蔵任命
11. 2船頭喜代蔵他解任達~この後修理
11. 22出帆準備完了
11. 28出帆、矢不来沖に流される
12. 10一両日帆見えず~この後修理
12. 20ミニエール百挺積込
12. 24函館出帆南部安渡落船
3. 1. 19南部安渡出帆、脇沢海岸停泊
 1. 24出帆、大島沖へ~この後26日まで漂泊
 1. 26江差木の子村字横沢浜へ潮掛り失敗難破
 1. 27難船報告
 2. 6鈴木忠美の報告
 2. 12昇平丸沈没太政官へ報告
『増上寺史』,『開拓使公文録』(道文5702),『旧開拓使会計書類』(道文6326, 6482),『日記 庶務掛』(道文3221),『諸官省往復留二』(道文178),『東久世長官日録』等より作成。

 開拓使は、十月二十九日船司浦田伊助・金穀積荷監督信沢銀造らを任命した。そして十一月二日に突然船長喜代蔵は、乗り組みのものを罷免して積荷の代金を勘定し、浦田伊助へ引き渡すように開拓使から指示された(旧開拓使会計書類 道文六三二六)。それについて喜代蔵は、十一月四日自分の主人である嘉御主人(嘉納次郎作)へ次のように書き送っている。
然は、廿四日入津後、廿五日トンタク、廿六日八木下様へ罷出候処、石狩場所エ御米不残運送可致事被仰渡候。然ニ雪中ニ相成、水主帆前働自由不相成候時節ニ付、其段申上候処、然は、評議之上下知可致と被仰聞引取候所、翌廿七日広川様より御呼出ニて罷出候処、水先世話以不被参候哉、御尋之節、水先申上候は、いかにも帆前故、水主働方むつかしく候段、申上候処、廿九日右広川様役宅喜代蔵罷出候様、御呼出参候ニ付、早速罷出候処、何れにも石狩迄参候様被仰聞候間、参候心得ニて、前書水先等も夫々心懸ケ候処、十一月二日俄ニ如此御書付御渡し相成候。右ニ付、誠に当惑仕候。尚即刻御船諸道具引渡候様被仰渡候。米之義は石狩ゼニハコニテ請取候様仰ニ付、左候テは難渋至極仕候間、此地ニて計立相渡可申段、追々願候得共、御聞入無之、是非々々セニハコにて受取候間、賄壱人差添、上乗ニ遣し候様、被仰渡候得共、壱人ニテは心元なく候故、是非とも、御所ニて御受取願候得共、一向御聞入無之候ニ付、今壱人差添遣し候様願罷在候。
(旧開拓使会計書類 道文六四八二)

 史料にあるように、船長喜代蔵は函館に到着以降、再三開拓使から銭函への米輸送の指令をうけたが、断わっていた。そのため開拓使は最後の手段として、罷免後の諸荷物の精算について、諸道具の引渡しは函館で行うが、米の精算は函館でせず、銭函ですると喜代蔵に指令したのである。喜代蔵は函館での精算を再三希望したが、聞き入れられなかった。このことは、開拓使昇平丸を早く銭函へ派遣したかったことを示していると思われる。だから喜代蔵銭函へ行くことを強要しているのである。開拓使喜代蔵に固執したのは、冬の航行には北の海に慣れている喜代蔵の技術が必要だったからであろう。また逆に喜代蔵が同乗することに同意を渋ったのは、北の海の危険を知悉していたからであろう。その後この交渉は続いたが、最終的には喜代蔵は函館で船を降りて精算を済ませている。(旧開拓使会計書類 道文六四八二)。おそらくベテランの船頭が降りたためであろう、この船の運航はこれからが手間取り、結局三年一月沈没してしまう。そのため、昇平丸が積み込んでいた米と材木はほとんど上がらず烏有に帰した(鈴木忠美日記 北海道史編纂史料 北大図)。