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新川開削

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 島判官が銭函への途中で歌棄で佐々木弥吉に黒松内山道の仕込みをさせていること、余市越山道などの見積りをしていること、雪中に銭函道の整備をしていることなどは、本府建設のための準備事業として、本府建設前から物資輸送路の確保をめざしていたことを示すものである(歌棄郡引渡書類 道文一八二、請込高金並遣払類分総計 十文字家文書 道文、十文字龍助関係資料 市史 第七巻など)。
 交通路と物資輸送路の確保の具体的な動きが、銭函道開削を別にすると三年七月頃からおこってくる。三年七月札幌への本府建設を一時中断し、札幌へ五〇〇軒の農家を移住させることが決定する(開拓使布令録)。その方法について川辺正太郎(明治三年書類 道文一〇六八八)、荒井龍蔵(明治三年同四年書類 道文三二六)、佐々木貫三(旧開拓使会計書類 道文六九二一)などが建言している。その一人佐々木貫蔵(三)はさらに八月、冬の輸送路の確保も考慮にいれた新川開削の建言を出している。諸色高の北海道、その中でもさらに高い札幌について、佐々木は薪の値段を調査した(岩内古宇石炭山御用書留 道文一九二)。その結果佐々木は小樽からの薪の運送料の半額で、札幌本府地から銭函のポンナイ川まで運河を開削できることを建言した。その運河は夏は船での輸送路となるし、冬は凍結してその上が輸送路として使用できる。さらに湿地帯の排水用にもなるし、掘り上げた土を運河の縁に積めば道路にもなるといっているのである(部類抄録 道図)。
 この事業はその後すぐ開始され、十文字大主典は九月二十日長官に同行してきた得能権判官に報告している。それによるとすでに一里余ができ、九月中に竣工の予定であった。しかし雨天の際に人足たちが食料を空費することを工事請負人たちが考慮して人足を増やすことを渋り、工事が遅れていた(河野常吉 札幌資料 道図)。また長官も『日録』に「新川開設シノロニ通ス佐々木貫蔵掘之、運輸之便ヲ計ル銭函ノホンナイニ達セン事ヲ企ツ」と記している。三年中、この新川は、本府地から現在の麻生の北部で琴似川と合流する辺までが開削された。これは現在の創成川の原形になるものである。工事の請負は佐々木貫蔵が開拓使側の責任者として行った。実際の工事を請け負ったのは第次郎(宇都野か)と秀次郎(寺尾か)たちであったようである。また『御金遣払帖』で、幸七に琴似川の掃除や流木切り掃などの請負金を支払っている。このことから、長官『日録』にある通り、輸送路としては琴似川から篠路に通じていたようである。
 ところが西村権監事が十一月晦日札幌に赴任してきてから、この堀について調査した。その結果、幅九尺深さ二尺の堀では水が流れなかった。そのため計画を変更することにした。堀の幅を四間とし、西側に幅三間の道路をつくる。外に脇に小溝をつくり谷地の水を排水するようにする。堀の東側にも土を盛り堤とする。これで水陸両用の輸送路交通路ができる。さらに佐々木に予算書を書かせたが、これは雪中の見積りで、雪解けと共に精密調査をするというのである(府県史料国公文など)。『札縨御開拓記』によると、四年春の雪解け後高見沢が、新川筋の調査のために銭函方面へ派遣されたことになっているが、確認できない。またその報告もなされたことになっているが、発見されていない。四年中にはこの新川開削は行われなかったようである。佐々木の計画図か、高見沢の報告の付図と思われるものが写真9である。
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写真-9 札幌ヨリ銭函新川迄之図(北大図)