さらに西村権監事は、本府建設について札幌の実地を検証しながら計画をたてた。そしてその計画実行のための伺書(「札幌表境界、移民取扱、官舎造営、社地、新川掘削等ニ付伺書」市史 第七巻―以下「西村七カ条伺」と略記)と図面を、盛岡へ移民募集に行く広川大主典に持たせた。四年一月五日に広川大主典は函館に到着して、東久世長官に西村七カ条伺と図面を渡している。指令は全条について一括して「可為伺之通事」である。
第一条では札幌府内の地域を限定している。通説になっている初めての札幌の領域である方一里が登場する。しかし方一里としたわけではなく、「方一里位モ無之テハ不相叶候得共」というように、方一里くらいが必要だ、という程度のことである。しかし河川などの自然地形のためにそうできず、実際の範囲は具体的に「北ハ本庁ヨリ直径三十六丁、南ハ豊平川、東ハ札幌本村境、西ハ庚午三ノ村境小川迄[本庁ヨリ直径十八丁余]ヲ先以府内ノ地所ト仕置度事」と指定している。しかしこの範囲も後の行政地域の概念とは異質のものである。札幌市中が他村との境界を確定するのは明治十一年である。その時には上記の範囲より北方と西方地域が狭くなっている。
第二条は札幌周辺の移民がまだ不足しているので、一村五〇戸になるように増やすというものである。また東京府貫属降伏人等の移住地については、雪解け後実地検査後に割り付けることにしている。
第三条は四年春の移民についてである。三二五戸の募集予定だが、すでに近在から五〇戸、松前から商民二〇戸、伊達将一郎家来と陸中胆沢郡百姓で五〇戸が決定しているので、あと二〇五戸を新規募集するというものである。
第四条は官舎そのほか造営に関するものである。判官邸大主典邸各一、少主典邸六、史生使掌長屋一棟、付属長屋二棟、手代小遣体の長屋四棟、神殿一宇、土蔵二棟、牢屋一搆、農家三二五戸、商家二〇戸、人足小屋一棟を建設予定としている。その建設順序については調書の通りとしているが、その調書はまだ発見されていない。農家、商家等の用材については手配しているが、ほかに長官公邸、東京府貫属分一二〇戸、会津降伏人おおよそ一二〇戸についても手配しているということである。
第五条は再考を指令された社地のことである。「丸山ノ麓」を指定した。ただし本庁からの距離はあるが、開墾が進めばよいところになるであろうといっている。実態として島判官在任中に決定した位置とどれだけ変更したのか不明である。同じ位置を示した可能性が大きい。しかし当時の円山とは、現在の三角山を指すこともあるので、この位置について一考を要するかもしれない。
第六条は三年中に開削を始めた新川開削についてである。前述のように再度計画変更して、より大きなものにすることにしている。また豊平川からの分流(胆振川か)が市街の地所に差し支えるために改修して、西にある古川(杓子琴似川か)へ流す予定にしている。他には琴似川、篠路新川についても雪解け後の実地検分の上、適宜の処置をする予定にしている。
第七条は移民手当の件である。手当支給中の家に入る嫁・聟・養子等に対する手当支給の要請である。
前述の「札幌表御用取扱向等伺書」と違って、かなり具体的な記述になっている。特に河川改修案については実地を見ていなければできない記述になっている。しかしこの計画は、岩村判官札幌到着と共にまた再度の変更を受けて実施され、現在の形態につらなるものとなる。