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開拓使の設置と移住政策

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 箱館戦争もおさまった明治二年七月に、これまでの箱館府(慶応四年閏四月二十四日設置)を廃止し開拓使が設置された。そして八月十五日に蝦夷地北海道と改称され、開拓が実行される段になってきた。明治政府では七月二十二日に開拓のために、諸藩・士族・庶民の志願者に相応の地所割渡しの布告を出し(太政官日誌)、八月以降には諸藩などに地所割渡しを行う。広大な北海道を政府の独力では開拓できず、諸藩などの力に依存したものである。このことはすでに清水谷・高野の意見書にもみえており、幕末の東北諸藩の分領政策を踏襲したものである。
 諸藩などへの地所割渡しが行われたことにより、開拓使が直轄する地域は道南は函館を中心とした上磯・亀田・茅部の三郡、道央は札幌・余市・岩内郡など、道北は上川・宗谷郡(宗谷は三年一月に金沢藩に分領)、道東は根室・野付郡などのわずかな地域であった。それと当時、ロシアとの雑居地となっていた樺太である。樺太については一時、樺太開拓使(三年二月十三日~四年八月八日)も置かれていた。以上の諸郡に対し四年八月二十日に諸藩などの分領支配が中止となり開拓使が全道を統轄するまでの間、開拓使が移住を推進していった。
 開拓使で最初に移民を召募したのは、東京府下の農工民約五〇〇人である。これらの農工民は二年九月に東久世長官などと共に来道し、そのあと根室、宗谷、樺太へ移住している。この移住は府下の浮浪民対策の性格が強く、開拓使側の立案になるかどうか問題がある。さらに、入植地も条件が悪いためにほとんど失敗に帰し、四年には引きあげ札幌区花畔村などに再移住している。また宗谷移民の一部は東京へ戻っている。