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開拓使の移民規則

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 三年の庚午移民、四年の辛未移民は、札幌本府の周辺村落を形成するために直接官員を派遣して募集したものである。しかしこの形式は莫大な費用を要した。五年に至り明治新政府の財政が窮迫化するのに伴い、開拓使も財政緊縮を迫られ、直接の移民募集は取止めとなった。そのかわり開拓使では種々の移民招致の法令を整え、自発的な移民の到来を待つことになった(明治三年は庚午、四年は辛未が干支であるので、以下三年の移民を庚午移民、四年を辛未移民と称して記述していく)。
 開拓使で初めて策定した移民関係規則は、『開拓使事業報告』によると二年十一月の仮移民扶助規則である。これは募移・自移の農民と工商民にわけられている。農民についてみると、募移・自移ともに三年間の食料扶助が給与され、家屋(自移は金五両の小屋掛料)、家具・農具など万端にわたり支給があり、開墾料も募移は一反歩につき二両、自移は一〇両という具合に後年にくらべきわめて優遇されたものとなっていた。この規則は特に札幌本府の建設と商人の誘致、村落形成と農民の募集向けに制定されたもので、庚午移民辛未移民にもこれが適用されている。ただ実際の数量が規則に合致するのは辛未移民で、庚午移民には別な規則が適用された可能性がある。なお開拓使貫属となって白石手稲に入植した片倉家の旧家臣団は、家屋は自前で建設した。そのため六年七月に一戸につき七五円が支給された家作料のうち、四〇円を預金にまわし利殖をはかっている。
 仮移民扶助規則は七年七月に至り移住農民給与更生規則にかわった。この規則は家作料として一〇円、農具七種、種物料一円五〇銭(三年間)とし、従前支給されていた食料・家具・開墾料の支給はなく、いたって簡便な内容に変更された。移民にとって魅力のない内容であり、これだけの理由ではないが、移民の増加に結びつくことは少なかった。