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移民の出発と到着

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 新潟・山形からの移民は、三月末から四月初旬にかけ新潟・酒田港を出発し、一路北上を続け小樽へと向かった。そのうち自在丸(新潟出港)、政吉丸(酒田出港)は四月六日、七日に小樽へ着港したが、札幌は「御米払底の折柄」(市史 第七巻二九頁)ということで、すぐには札幌へ入らずしばらく小樽へ滞留することになった。移民たちが札幌に向かうのは四月十五日以降で、十五日に五〇人が政吉丸で石狩へ、二十三日に一一二人が陸路で札幌へ、二十七日に同じく一三〇人、二十九日に二二人が開運丸で石狩へ、五月一日に三五人が陸路で札幌へという具合に、総計三四九人が札幌に向かっている。さらにその後も、新潟から到着した移民が五月七日に福寿丸で石狩に向かっている。
 このように札幌入りが遅れたのは、そもそも開拓使の方で移民受入れの準備を整えていなかったことによる。酒田県の移民の場合、小樽港に着くなり「正ニ使庁ノ改革ニ際シ召募ノ令ヲ解ク」(移民履歴調 市史 第七巻二六一頁)と宣告されるなど、開拓使の対応は杜撰(ずさん)なものであった。札幌入りしても入植地の選定はされておらず、「各自一区ノ地ヲ相シテ開墾スヘキ」指令を受け、自ら「東奔西走」(同前二六〇頁)して土地を選定して歩く状態であった。また札幌入りしても家屋は建設されていなかったために、当初は大きな小屋に雑居の状態で、渡航中に発生した疱瘡の伝染も心配されていた。
 土地割渡しを受けたのは五月で、六月から開墾に着手したというが、山形県移民は庚午一ノ村(苗穂村)に三六戸一二〇人、庚午二ノ村(丘珠村)に三〇戸九〇人、庚午三ノ村(円山村)に三〇戸九〇人が、それぞれ一村を形成して入植した。新潟県移民の二二戸九六人は、大友亀太郎が開いた御手作場のある札幌村の北部に入植した(数値は『開拓使事業報告』第二編―勧農による)。ここは庚午四ノ村、あるいは札幌新村とも呼ばれ、それに対して御手作場の地域は札幌元村といわれた。村名はもちろん三年の干支が庚午のことに由来しているが、四年五月二十五日に改称され、庚午一ノ村苗穂村、二ノ村は丘珠村、三ノ村は円山村となった。札幌新村と元村は合わせて札幌村となった。庚午移民は以上の四カ所に一一八戸三九四人が入植したほか、発寒村(後の上手稲村の地域)へも入植している。
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写真-11 庚午一ノ村(苗穂村)の家屋と開墾地の風景(明治4年,北大図)
 
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写真-12 庚午一ノ村と新堀川 実際は札幌元村と大友堀である可能性が強い(明治4年,北大図)